レイキと悟り

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臼井先生の到達した悟りとは?

臼井先生には著作と言えるモノはありませんので、これを探るのは難しいことです。臼井先生が生きていた時期は、神秘伝という段階があって、マンツーマンでそういった事を指導していたということですが、臼井先生が亡くなってからは、神秘伝というのは曖昧になっています。土居氏の著書「レイキ 宇宙に満ちるエネルギー」p114に、『(臼井霊気療法学会では)神秘伝の内容はカリキュラムとしては存在せず、臼井先生亡き後は大安心の境地を指導するのは困難なため、それ以外(ヒーリングの仕上げ、会員の指導、学会運営など)が、神秘伝者の主な役割になったようです。』とあります。つまり、今の時代でレベル3とか「神秘伝」と称してして行われている内容は、基本的に後世の人達、あるいは西洋レイキの人達が、分からないながらに再構築したものです。土居先生自身も学ばれたのは奥伝までです。ハッキリ言ってしまえば、(私も含め)教える資格がない人達が教えているのが、今の西洋レイキの神秘伝あるいはレベル3という、ある意味非常に滑稽な現状となっているのが、この業界の実体です。
しかしレイキ・霊気を実践していると、霊性、精神性、そして悟りとは重要なつながりがあるのは私自身は大変に痛感しています。ですので、こういった限界は認識しつつも、出来るだけ良い内容・カリキュラムで教えようと、試行錯誤をしているわけです。私のスクールもそうです。

いずれにしろ、今日レベル3あるいは神秘伝と称して行われている内容は、伝統霊気のものではなく、現代的なもの、西洋レイキ的なモノなのです。西洋レイキで、マスターシンボルとか第4シンボルといわれているモノは、伝統霊気にはなかったということが、Frank Petter氏などの調査で分かってきています。土居先生自身も上記の著書p129で「西洋のシンボルと伝統のシンボルを比較してみると・・・・。第4シンボルといわれているものについては、誤解をさけるためにここでは触れません。」と暗に西洋レイキと状況が違うと告白しています。事実を知っている人としては、もう少し正確な説明をしてほしかったと思いますが・・・。Frank Petter氏の調査も含めて、臼井霊気療法学会の複数の会員が、そのようなシンボルはないと証言しています。
想像になりますが、第4シンボルは高田先生かそのお弟子さんの誰かが、レベル3を再構築する際に作り出したものと推定します。これは、第1~第3までのシンボルと、第4シンボルを良~く比較検討すれば、第4シンボルだけが根本的に違うことからも納得できます。Frank Petter氏はこれらのことを自身のドイツ語の本("Reiki ganz klar!" ISBN= 978 3893854974[p60]、"Das ist Reiki" ISBN= 978 3893855889 [p242])に書いていますが、これの英訳を米国で出版しようとしたら「業界に混乱を起こすから」という理由で出版を断られています。

[追記] 第4シンボルの詳しい状況に関しては、拙著「日本と霊気、そしてレイキ」に詳細に記述しておきました。また、上記フランクさんの本の英語版はドイツ語版から遅れること3年後の2012年に出版されて、日本語版も出ています

臼井先生にまつわる話として、すでに「安心立命」という言葉を考えましたが、私の意見ではこれはあくまで悟りの一つの側面であって、必要条件であっても十分条件ではないでしょう。また、すでに述べたように「安心立命」はその意識があまりにも自分に向きすぎているので、私にとってはこれは悟りには満たないと感じています。そして、この言葉を悟りの第一に掲げることは、場合によっては人を間違った方向へ進ませる可能性があると思います。

他に臼井先生にまつわる表現として、断食をしたときに「宇宙即我」「我即宇宙」という感覚を得たといいます。これは自分と宇宙の一体感と解釈できます。私たちが宇宙の法則、宇宙のあり方、宇宙の営みと、完全に整合したときに、私たちは最大限の素晴らしい力を発揮することが出来るといわれています。このような状態が「本来の人間」であり「万物の霊長」であり、これは一種の悟りの状態といっても良いでしょう。

推定になりますが、臼井先生がいわんとしているのは「安心立命」よりももっと広いことで、実はそれは端的に「五戒」の中に現われているのではないかと思います。「安心立命」と「五戒」を比較すると、「怒るな」「心配すな」「業をはげめ」というのは自分に視野を向けたもので、安心立命と重なる部分がありますが、「感謝して」「人に親切に」は他人や自分以外に視野を向けたもので、安心立命のニュアンスと少し違います。ここにまさに、大事なエッセンスがあると思います。悟りというのは、隠遁したり、座禅したり、瞑想したりするだけで得られるものではなくて、他の人や社会と関わる中で得るべきものだということが、五戒の中に込められているのではないでしょうか?そして「今日だけは」というのは、それらが日常的な中で達せられるべきだと教えているのではないでしょうか? 「五戒」は伝統霊気では非常に重要視されます。大事なことだから、最初から出てくるし、大事なことだから良く斉唱されるし、これがやはり臼井先生が伝えたかったことの大きな部分だったのではないでしょうか?「五戒」がちゃんと出来るようになれば、それはやはり悟りの状態であることに間違いはないですから。

私の考えるレイキの悟り

臼井先生なら悟りはどういうものか語れるはずです。が、そもそも私たちのように悟りを得ていないものが、悟りって何?って考えることは、それはおぼろげにさえも分からないかもしれません。さらには、悟りということは個人個人でもしかしたら大きな違いがあるのかもしれません。ここではそういった点を大前提しながらも、私の視点で悟りを考えてみたいと思います。

私は、悟りは隠遁したり、籠もったり、瞑想ばかりしていたり、孤立して出来るものではないと思います。人によっては、そのようにして「悟った」と感じる場合もあるかもしれませんが、そのあとに日常の生活に戻って、また怒りや心配が始まったとしたら、それはとてもとても悟りとは言えません。もちろん、瞑想したり、静かな自分だけの時間を持つことはとっても大切で、それなくしては悟りはないと思いますが、ただそれだけによって、悟りが近づくなどと考えるのは、おかしな話だと思います。当然のことながら、講習を受けたら悟りが開けるなんてことは、あるはずがありません。

私は日常的な「今」という時間にこそ悟りの鍵があると思います。
普通の社会生活の中で、他の人と関わりながら、自分のなすべきことをしながら、心や身体が良い状態であってこそ、悟りではないでしょうか?心を乱すことから遠ざかって穏やかになれても、それは単なる逃避です。ヨーガでも、その修行には二つのタイプがあります。瞑想を中心にした静的なものと、ヴィパッサーナのように日常の中に修行を求めるもの。悟るためにはその両方が必要とされています。

悟りの状態そのものは良くわからなくても、もしも悟っていたらこうなるだろうというのはまさに「五戒」です。怒ったりせず、心配せず、感謝がちゅんと出来て、自分の日々の業が出来、人に親切に出来る、というのは悟っていなければ、なかなか難しいことです。伝統霊気で五戒が非常に重要視されているのは、まさにこれこそが臼井先生が考えていた悟りの状態に近いからではないでしょうか。五戒はなにか遠くの目標ではなく、毎日のその日のその時にフォーカスします。五戒が出来れば、毎日は幸せに、豊かに、充実して進んでゆくはずです。悟りというものが、単にお題目、妄想、幻想ではなく、実際に生きてゆくために役に立つものであるならば、それはやはり日々の生活の中にこそ鍵があるのではないでしょうか。

さて、最後に施療、人にレイキをするということが、悟りを得るためにもいかに大事か、説明したいと思います。自己ヒーリングだけでは絶対にダメです

以上のように、他人にレイキ・霊気を使う、施療をちゃんと行うということは、私たちの心が豊かに、穏やかになるためには、非常に大事なのです。これはレイキを使って行く上で、いくら強調しても、しすぎることはないと思います。施療を単にレイキの「五合目まで」だと考えるのは、こういった大事な点を理解していないのです。レイキを他人に使う・施療するという面と、悟りという面は分けられるものではなく、表裏一体、常に相互に強化し合うものなのです。
施療は卒業、じゃあ次は悟り、なんて発想は残念ながら誤った方向へ進むだけではないでしょうか。せっかくレイキが使えるのに、瞑想ばかりしていたり、自己ヒーリングばかりしていたら、本当の方向性は見えてこない、というのが私の主張です。皆さんはどう思われますか?

 
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