雑感: 藤原てい 流れる星は生きている

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私がHPなどで藤原正彦氏の「国家の品格」「日本人の誇り」を紹介させて頂いたところ、受講生のある人から別な本を紹介して頂きました。藤原正彦氏のお父さんは小説家の新田次郎ですが、お母様の 藤原てい も本を書いています。この 藤原てい さんの「流れる星は生きている」を薦めて頂き、読んでみました。

流れる星は生きている この「流れる星は生きている」は戦後直後ベストセラーになり、映画化されたり、テレビドラマにもなり、この時代の人なら誰でも知っている有名な実話です。私は全く無知で知りませんでした。親にこの本の話をしたら「あぁ、あれね」って知ってましたが、あまりに俗っぽいと考えたのか読んでいないとのこと。

この「流れる星は生きている」は、藤原ていさんが、1945-46年にかけて、子供3人をつれて、敗戦直後の満州から、北朝鮮に閉じ込められ、日本へ逃げ帰ってくる行程を書き表した実話です。

ご主人の藤原寛人(新田次郎)とは途中で生き別れになります。この帰国の行程は、まさに壮絶なもので、4人とも1回ならず数回は死にかけてしまうというぐらい大変なものです。子供は、長男の正広6-7才、次男の藤原正彦氏はその時まだ3-4才の幼児、それに0-1才の長女。今、偉いことをいろいろ書いている藤原正彦氏が、当時はそんな幼児で、母親に引っ張られて、生死の境を乗り越えて、生きて日本に帰ってきて、本を書いて、それを自分が読んでいるというのは不思議な気分です。

この本を読んでいて感じるのは、極限状態の置かれた時の人間のエゴと優しさの交錯というか、エゴの部分のほうが多いようですが。それから人間はここまでになっても気力があれば生きられるのかとか。子供なんかみんな栄養失調状態で過ごします。北朝鮮に同様に残された医師が日本人のグループを診るのですが、薬がないので結局は何も出来ないという状態になります。レイキヒーラーとしては、自分がレイキが使えて、その場にいたら、こうするだろうというのは沢山ありました。こういう状況では、レイキが使えるのと使えないのでは、数多くの生死と関係してくると思いました。そういう状況になってほしくはないですが。

3人の子供を生かして行くんだという母親の執念は、それは凄いものです。しかし、他の母親は自分の2人の子供を生かすために、小さい赤ちゃんをあきらめるという選択をする人もいます。どちらの選択においても、生きている命をつないで行くという行為は、言葉では説明しがたい迫力があります。私達はこうやって戦争を乗り切ってきたのです。命をつなぐと言うことが、私達の文化を守る、日本を守るということにもなる典型的な一例でしょうか。

実は、直傳靈氣を始められた山口千代子先生(1921~2003)も満州にいて、終戦時に引き揚げてきた一人でした。千代子先生の話と 藤原てい さんの話を比べると、レイキヒーラーにとっては最高の勉強になります。
千代子先生は満州でも、家族や近所の人に靈氣をして役に立てていましたが、山口忠夫著「直傳靈氣」p85『終戦後、治安が悪化し医者にもかかれない時に自分がヒョウソウにかかって、どうしようかと思って、靈氣を自分の手にしっかりかけて治しました。・・・小学校は遠くから引き揚げてきた難民の人であふれかえり、栄養失調の子どもが半狂乱で壁をかきむしり死んでゆくということもありました。そんな中、たくさんの人に靈氣をかけてあげました。医師なし、薬なしの状況で靈氣は本当に役立ちました。』韓国からの貨物船での移動は、藤原てい さんも記述されていてその悲惨な状況がありましたが、千代子先生はその船で子どもの腹痛に靈氣を使っています。

もちろん、千代子先生も、このときに何かのきっかけで命を落としていたら、今の直傳靈氣は多分存在していません。もちろん、3-4才の正彦が死んでいたら「国家の品格」もありません。
藤原一家、そして山口一家を始め、多分多くの人がこの様に命をつないで、日本の文化を継承したのではないでしょうか。今の日本の私達の文化資産はこういった人たちの、貴い努力の上に築かれているのです。さらに、戦争で命を亡くされた膨大な人たちが持っていた日本の文化は消失してしまったものも数多くあることだと思うと、ちょっと背筋が冷たくなります。

あとこの本を読んで感じたのは、今の私達は余りにも恵まれすぎているというか、感覚が麻痺しているというか、ある意味で狂っているというか、ちょっとしたことですぐに不幸だと感じたり、不変不満をぶつけたりとか、人間の欲というのは、良い意味でも悪い意味でも、もの凄いものだと思いました。

この本、続けて2回読みました。1回目はドキドキしながらだったので、落ち着いて読みたかったのです。2目読むと「あ~、この人はあとで死んじゃうんだ~」とか、「うーん、この赤ちゃん産まれても、結局死んじゃうんだ~」とか、「この人はあとになって発狂しちゃんだ~」とか、余計に切なくなりました。

最後、意外に感じたのは、(当時の)朝鮮の人たちの同情というのでしょうか。もちろん、日本に良くない感情を持っていた人も数多くいると思いますが、目の前の困窮している日本人に多少とも手をさしのべてくれる現地の人たちが数多くいたのは、救われました。いまや朝鮮民主主義人民共和国となった現地では、これらの人たちはいったいどうなったのだろうかという思いにもはせました。

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この本とはちょっと離れて歴史的なことも気にとめておきたいです。朝鮮は不幸にして超大国の中国に隣接して、昔から様々な支配や侵略を受けてきました。日本にとっては、ロシアや中国の2大超大国から日本を守るための緩衝帯として、朝鮮を利用してきたという面も少なからずあります。実際の所、朝鮮半島が二分されたというのは、現実的にはこの緩衝帯として役に立ったということに他なりません。その国の人にとっては大迷惑な話ですが。地理的に不幸な位置だと思います。日本は様々な経緯で、1910年から終戦の1945年まで、韓国統治(植民地化)します。これには今の感覚では非常に不条理なことが行われていました。ここに例がありますが

『校長先生は日本人、先生の半数も日本人でした。小学3年生のとき、朝鮮語は禁じられ、上手に日本語を話す生徒だけが先生にかわいがられました。「国語常用」と書かれた木の札が5つ作られ、学級の中で誰かが朝鮮語を使用すると、その札が渡され、授業のあとにその札をかけられた生徒は罰として、冬は零下15度、時には20度まで下がる寒さの中、凍る水でぞうきんがけをさせられました。日本人の担任の先生は朝鮮語を話すとひどく怒ったといいます。

小学5年の頃、校舎の中心に「奉安殿」が建てられ、先生が「おそれおおくも、現人神、天皇陛下の御真影を奉納する」と、天皇の写真をおごそかに高くかかげてくるのを、頭を地につけて迎えました。朝礼では「東向け東」の号令で「宮城遥拝」し、大声で皇国臣民の誓詞を唱えました。月に一度か2度、全校生徒が列をつくってナムサン(南山)にある神社に参拝に行きました。教会の牧師は神社参拝を拒否して警察に連行され拷問を受けた後、刑務所におくられ日本敗戦のときまで収容されました。朝鮮に建てられた神社は1600以上あるといわれ、敗戦とともに侵略の象徴であった神社は焼かれました。』

日本はこういったことを現地でやっていたわけです。人々の人生を狂わす内容です。こういう状況で敗戦になって「開放された」と人々は思うわけですが、もうまもなくソ連軍が進駐し、中国共産党が入ってきたりして、独立(朝鮮半島全体の)というのが夢で終わってしまうわけです。藤原一家が約1年過ごした北朝鮮の宣川(ソンチョン)には、日本人墓地があって当時多くの亡くなった人が埋められたようですが、その人達の骨は今もそのまま眠っているのでしょうか?

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