レイキセラピストと死
レイキは最期まで使える
他のセラピーや代替療法は大抵の場合は「体力のなくなった人にはやらない」とか、「医師の管理下にあるときはやならい」とかありますが、レイキはそういった禁忌はまったくありません。レイキは瀕死の状態でも、もう回復する見込みがなくても、いままさに逝こうとしている状態でも、大変有用に活用することが出来ます。これはレイキならではの素晴らしい特徴であり、医師がすることがなくなってしまっても、何かしてあげることが可能です。
自然と死と向き合うことに
しかし、これは逆に言うと、プロフェッショナルとしてすべてのクライアントさんに対応していると、どうしても自分のクライアントさんで亡くなる人がで来るという自然な帰結を受け入れなければならなくなります。レイキを末期の状態の人に使えて、少しでもお役に立てることは、これは本当に素晴らしいことで、レイキセラピストとして、こんな名誉で光栄なことはないと感じます。プロとしてレイキを使ってゆく上では、人の死に遭遇することは、天命であるとも思っています。逆に、これを避けているようでは、本当のレイキ施術者とはいえないと思います。
いろいろな葛藤が
一方で、自分が施術していたクライアントさんが亡くなるというのは、簡単なことではありません。年に1~2回はそういったことがどうしても起きます。看取るという体験はまだないですが、亡くなる数日前まで手を当てていた、遠隔の場合は死の前後で遠隔をしていた、という経験は自然に起こります。そうすると、様々な葛藤、後悔、無力感が起こります。自分なりに最大限の努力をしていたときには自分の無力感を痛感し、逆にそうでない場合はもっと施術をしてあげられたのではないかとか、もっと良いやり方があったのではないかとか、いろいろな後悔が起こります。亡くなられた方のことは、明瞭に記憶に残っています。最後の時期に感じられていた肉体的、そして精神的な苦痛を想像すると胸が痛くなります。自分の力で結果を変えられたわけではないと思いますが、こういう葛藤は、何か今後の活動にプラスのなるのだろうかという疑念さえ起こります。
死は特別
レイキを使ってゆくと、死とダイレクトにつながらない病気には、あまり一喜一憂しなくなります。どんな病気でも、命がかかっていなければレイキを使ってゆけば、多くの場合は良い方向へ進んでゆきます。生きている生命・生物の生きるエネルギーというのは本当にものすごいものがあります。死というものは避けられないものですが、僕の中では生死に関わる病気はどうしても特別な位置を占めます。普段はあまり意識的に持ち上げませんが、自分の中ではとても大きなテーマです。
死は実は身近なもの
養老孟司氏の「死の壁」に書かれていますが、死というのは本来はとても身近なものにもかかわらず、日常生活から隠蔽されているという記述がありますが、それは本当にそうだと思います。2009年の国内死亡者数は114万4千人。これは1日当たりで3134人、1時間当たり130人、1分当たり2人となります。人はどんどん死んでいます。私がこの文章を書いている間にも200人以上が亡くなっています。しかし、自分の親戚でない限り、生の話としても頻繁に入ってきませんし、ましてや「看取る」なんてことは滅多にありません。それでも毎分2人の人が亡くなっているのです。どこで? そう大抵は病院です。私達の日常生活からは隔離された場所で、大抵の皆さんは亡くなって行くのです。本来はもっと真正面から捉えないといけないものなのか、逆に日常とは切り離して処理するべきものなのか、私には分かりません。私が看取った経験のあるのは、私の祖父で、そのときは私だけが病院の枕元にいて、私を良くかわいがってくれていた祖父の最期につきあうのは、とても象徴的でした。
本来は大変に身近な死というのを、隔離・隠蔽するのは、良いことなのか、悪いことなのか。不幸がある一方で、幸福があるように、生があれば、死は必ずあるわけです。私の個人的な感覚では、死を日常生活から引き離すのは、政治を政治家に任せっぱなしにしてしまうように、ある意味で無責任であるようにも感じます。もう10年ぐらい前になりますが、「Quality of Death」というのを考えたことがあります。本来は、生き物は私達が体験しているのよりも、自然に旅立てるように出来ているのではないかという考えです。現代医学では、死は絶対悪で、最後の最後まで薬や道具を使って、心停止を遅らせようとしますが、そのために反って苦痛を起こしている面は完全には否定できないのではないでしょうか。そのために、不必要に日常から死を隠蔽してしまっている面はないでしょうか。身体のあちこちに、ケーブルやパイプを繋がれて、苦痛を感じながら死んでゆくのは自分がその立場になったら、拒否したくなるような状況です。
考えはないですが・・・
結局は自分としてまとまった考えがあるわけではないのですが、このようなことを日常的に考えさせてくれる立場は、身に余る光栄だと思います。亡くなった方達のことを考えると、辛い面もありますが、これに付き合うのは使命でしょう。私の考えというのは無いのですが、次の臼井先生の言葉がすべてを語っていると思います。私もこれを目標として努力する以外ないと思います。
「ここに一つだけ、霊気でも、医薬でも、神仏の祈祷でも治らない病気がある。それは寿命の尽きたときである。すなわち、人の生命には、大人、子供の別なく限界がある。これは、自然の摂理であり、人間の寿命であるから、何とも致し方はない。しかし、その人の寿命と判ったときは、なおさら、最後の最後まで、万全を尽して親切に真剣に治療をしなさい。そうすれば、どんな苦病の人でも、実に安らかな往生のできることは確実であるから、努めて実行せよ。」(「霊気療法のしおり」より)