2008/03/07更新

レイキの歴史詳細

レイキ・霊気の歴史は多くの書籍やHPで記述があります。
最初は簡単と思ったのですが、他のレイキのHPには既存の文章のコピーも多く、ここではいっそ、自分で少しづつ勉強したものを自分なりの歴史観を加えて綴って見ようと思います。ですので、徒然に更新します。

霊気以前の手当療法
霊気の始まり
当時の日本
当時の霊気
霊気を元にした諸派
西洋への伝搬
西洋レイキ
高田はわよ→22人のマスター
高田先生
臼井霊気療法学会
高田 VS 臼井霊気療法学会
日本の西洋レイキ
レイキと霊気の統合・比較
霊気と鞍馬

霊気以前の手当療法

霊気以前にもいわゆる手当療法的な手法は太古からあったようですし、世界の色々なエリアであったようです。日本ではおそらく陰陽師の時代に医術、禁厭(まじない)としてそう言った物があったようですし、古神道の中にも出てくるようです。この辺の情報はまだ勉強不足で、今少しづつ資料を集めておりますので、分ってきましたらここに書き加えてゆきたいと思います。しかし、靈気以前の手当療法は基本的に修行を積んだ偉い人とか、悟りを開いた人がやるものという認識があったと思います。臼井先生が開発した霊授によって、実は誰でも霊気を使うことが出来るのだ、というのはこの分野での画期的な大転換だと思います。

一つ、霊気の歴史をリサーチしていて感じることは、日本は国家として自己否定を行なったのが二度あるということです。一つはもちろん太平洋戦争の敗戦・戦後です。しかし、もう一つは実は明治維新というのは、旧来の江戸時代の日本の自己否定であったと思います。西洋的なキリスト教的な価値観を導入して「近代」国家になろうとしたトップダウンの改革だったわけですが、その過程で自己否定の部分がかなりあったと思います。まだ、十分なリサーチが出ていませんが、「1882年 明治政府が、医療服薬を行わず禁厭祈祷のみを行う治療術を禁止する」というのを見つけました。まあ、当時としては西洋的な近代的な政策といえますが、(良い悪いは別にして)逆に言えば当時は実は政府がそいうおふれを出すぐらいに、民間では禁厭祈祷が真面目に受け入れられていたという事ですね。

霊気の歴史を学ぶということは、それ自体の意味もありますが、日本の古来からの良い文化を学び、過去に行なった「自己否定」を癒してゆくという面があると思います。

霊気の始まり

臼井甕男臼井甕男霊気は臼井甕男(ウスイミカオ 1865-1926)先生が1922年に京都の鞍馬山にて断食修行を行なって見つけ、霊気治療として確立しました。実は臼井先生のこの1922年以前の事は詳細には分っていません。 臼井家というのは平安時代から鎌倉時代に活躍した武将で千葉一族を祖先としていたということがわかっています。臼井先生は非常に多くの職業に就いたり、海外に渡航したりと多くの人生経験を積んでいた事は間違いない と思いますが、伝記のような物は存在していません。また霊気を見つけてから翌月には、治療所や学会を立ち上げていることから、すでにそれ以前から何らかの考えがあったのではないかと私は想像しますが・・・。臼井先 生の写真は非常に少なく、ここに載せている二種が一般に知られているほか、20名ほどのお弟子さんと亡くなる数ヶ月前に撮られた写真しか見たことがないです。

 1922年3月 鞍馬山での断食修行で霊気を感得。
 1922年4月 原宿に臼井霊気療法学会を設立し、霊気治療、公開伝授を行う。
 1924年2月 東京中野に移転拡大し、治療や指導を継続する。
 1926年3月 3月9日、広島県福山にて62歳で病死。

臼井先生が鞍馬の修行でレイキを感得してから、治療を始めるまでは一ヶ月ととても短いです。これはすごい早さだと思うのですが、何か悟るところがあったのでしょうか、以前からそう言ったことを考えておられたのでしょうか、その辺の所は知りたいと思いました。Fran Brown (著)「Living Reiki: Takata's Teachings」によると高田先生(後述)が伝えたところによると臼井先生はかなり前からキリストや仏陀が行なったヒーリングを実現する方法を探していた記述があります。

1922年ワシントン会議で海軍軍縮条約
1922年グリコ」設立
1922年4月 日賀志屋(現=ヱスビー食品)が創業
1923年9月 1日 関東大震災
1924年1月18日東京市営の乗合バスが営業を開始
1925年3月29日普通選挙法成立
1925年4月22日治安維持法公布
1925年明治コナミルク、キユーピーマヨネーズ、ミルクキャラメル
1925年松下幸之助が初めて「ナショナル」の商号を使用
1926年労働農民党結成、社会民衆党結成、日本労農党結成
1926年豊田、日本放送協会、東レ、キンカン、ミルクチョコレート

(臼井先生が活躍された時代は治安維持法が成立したとはいえ、ホノボノ とした時代であった事が伺えます。日本の諸産業の黎明期になっていた ようですね。)

当時の日本

明治〜大正〜昭和初期の戦前の日本については、非常に多くの点が誤解されている部分があると思います。これは霊気とは直接は関係ないですが、霊気も含めて我々日本人のルーツというか、近代的な日本の重要な側面です。学校では、戦前の日本は明治憲法に象徴されるように興国史観や天皇崇拝に支配されていた暗黒の時代だったかのような印象を植え付けられている部分が多いです。これはかなり現実とはかけ離れた間違いに近いものだと思います。実は近代日本のルーツというのは戦後ではなくて戦前特にこの明治〜大正〜昭和初期にあるのです。これは私の長いテーマでもあり、ここで書いてゆくのは霊気とは少し離れてしまいます。政治的な側面では、あまり好きなキャスターではありませんが、坂野潤治, 田原総一朗「大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!」という本もあります。 

この時期にどういうことが起こっていたのかを示す一つのデータとして、私が趣味でやっている写真、日本のカメラメーカーの創業を見てみましょう。

コニカ   「小西六兵衛店」1873年に写真材料で創業 1936年小西六写真工業に
ペトリ   「栗林写真工業」    1907年に創業
ニコン   「日本光學工業株式會社」1917年に創業 主に海軍向け光学兵器
オリンパス 「高千穂製作所」    1919年に創業 顕微鏡の国産化
ペンタックス「旭光学工業合資会社」 1919年に創業
チノン   「三信製作所」     1923年に創業
コンゴー  「山崎光学研究所」   1924年に創業
ミノルタ  「日独写真機商店」   1928年に創業
トプコン  「東京光学機械株式会社」1932年に創業 主に陸軍省向け照準眼鏡
タチハラ  「タチハラ写真機製作所」1933年に創業 大判カメラ
フジフィルム「富士写真フイルム」 1934年に大日本セルロイドから分離独立
キャノン  「精機光学工業株式会社」1937年に創業
リコー   「理研光学工業」   1936年に理化学研究所からのスピンアウト

戦後メーカーは ミランダ、マミヤ、ゼンザブロニカ、
ヤシカ(京セラへ吸収)、コシナ、タムロンなど

カメラは日本の精密機器のほんの一握りの業界ですが、ある意味それを象徴しているとも言えます。まさにこの霊気の時代にちょうどこれらのメーカーが生まれて育っていったのが分ると思います。私はニコン使いではないですが、ニコンが海軍の光学兵器(高射砲など)メーカーとして出発していたのは知りませんでした。他の産業や文化の分野でもどうだったのか徐々に調べてみたいと思います。

別の視点ですが私の住んでいる武蔵野市の小学校の開設を見てみました。

1873年 現在の第一小学校、第二小学校が小学校として設立
1889年 吉祥寺、西窪、関前、境が1村の武蔵野村となる
1899年 吉祥寺停車場 開設
1930年 三鷹駅 開設
1930年 第三小学校 開校
1941年 第四小学校 開校

となっており、かなり古い時代にすでに出来ていたことが分りました。残りの8つの小学校は戦後に出来ました。

当時の霊気

どういう経緯だったのか興味がありますが、霊気は当時の海軍の中で認知を得ていたようです。日本の海軍は陸軍と比べると新しいものに対して許容性があったようです。実は当時の海軍を指導したことのある退役米軍兵の方に直接お話を伺ったことがあるのが、当時の海軍は資質・技術とも世界のトップレベルであったということです。軍艦という非常に孤立し、物資・医薬が最初から最後まで限られている状態で兵士の治療に霊気を適用するという発想があったとしても不思議ではないと思います。臼井先生の死後、学会の会長が2代目・牛田従三郎(海軍少将、1865〜1935)、3代目・武富咸一(海軍少将、1878〜1960)と続くのは興味深いです。二人の名前は海軍名簿 に見られます。また、戦後の時代になりますが、4代目会長の渡辺義治(よしはる)(高岡高商教諭、哲学者 ?〜1960)の後は、再び海軍関係者の和波豊一(海軍中将、18831975)氏が会長につきます。

1928年(昭和3年)の時点の、臼井霊気療法学会の会員数は当時の名簿によると約5000名、1930年(昭和5年)には約7000名の名前が記れているそうです。これは今考えるとすごい数字だと思います。ただ、2代目会長の牛田従三郎氏の時に、何人かの有力な治療家が学会を離れて独立したようです。この中に臼井先生のお弟子さんで、西洋レイキへとつながる軍医だった林忠次郎先生がいて林霊気療法を確立してゆきました。

当時の霊気が今日と大きく異なる点は霊気は治療であったということです。霊気は病気を治すために始められ、発展し、認知されていました。西洋レイキへのつながりのある林先生でさえも、軍医であるという背景もあったようですが、信濃町に治療所を持ち、8台の治療台があり、16人の霊気治療家を抱えていました。午前中は治療所での治療が行なわれ、各治療台に二人の治療家が付き治療を行ないました。一人の患者さんに対して30〜60分の霊気を行ない、午前中はこの治療所での治療でほとんどいつも一杯だったようです。午後は、各治療家はそれぞれ色々な場所へ出張治療を行なったそうです。このあたりの記述は実際にこの治療所で1年間インターンとして直接働いた高田はわよ先生からの伝聞でかなり正確ではないかと思います。

霊気を元にした諸派

このほかに、臼井霊気をベースにした手当療法として「手のひら療治研究会」を始めた江口俊博氏、「富田流手あて療法」の富田魁二氏などがありました。この二氏に関しては著作も残っていますので、紹介してゆきたいと思います。(手当てをする宗教団体もありますが、それらは同時期から存在していたものと、霊気を学んだ人が宗教として変形させていったものに別れます。)

江口俊博氏 : 臼井霊気療法学会に2年在籍し、臼井霊気を学んだ後に退会・独立して、手末の道として、手あて療治を普及してゆく。江口俊博(トシヒロ、1873〜1946)→三井甲之(コウシ、1883〜1953)、宮崎五郎(?〜1984)→喜島康(コウ、女性、1931〜)、三橋一夫(1928〜)などと現存している。江口俊博氏の流れ詳細

富田魁二氏: 準備中

西洋への伝搬

林忠次郎 林忠次郎先生(1879〜1940)は神奈川県出身で23才のとき海軍兵学校30期(1902年)で卒業され、海軍大佐、軍医でした。臼井先生のお弟子さんで、退役後の47歳の時、1925年(大正14年)に東京信濃町(現新宿区)に霊気治療所を開きました。西洋への伝搬はこの林先生 が、ある日系ハワイ人の女性を弟子として育てたことで起こりました。

前述したように林先生の治療所は信濃町にあり、16人の治療家を抱えるという比較的大所帯であったようです。霊気が医学的な治療にガンガンと使われているその現場を自分の目で見てみたいという、出来たらタイムスリップしてその現場に行ってみたい、自分も参加してみたいとすごく感じることがありました。今とは社会のシステムが違う時代ですが、ある意味今よりも進んでいたとも言えると思います。海外の文献やネットの話題では林先生が軍医であったことの証拠がないと疑問を持つかたもいます。実は、国会図書館で戦前の東京市の納税者記録を調べた人がいて、医師としての林先生の納税記録を見つけて確認されております(林先生の霊気治療所のあった住所で納税)。(林忠次郎先生の著書?

林先生は多くの人に霊気を普及させました。当時の林先生の霊気を受け継いでいるものに直傳靈氣があります。これは現在世界で唯一伝統霊気が今でも学べる系統になっています(直傳靈氣セミナー)。1940年林先生は亡くなってしまいますが、その後は奥様の知恵婦人が継ぎました。知恵婦人も当時はそれなりに活動していたようです。ただ、残念ながら知恵婦人はその後ある宗教に入信され、多くの人が林靈気研究会から去っていったとのことです。Frank Petter & 山口忠夫著の「The Hayashi Reiki Manual」(p13)には林先生の治療所の住所があります(当時:四谷区東信濃町28 現:新宿区信濃町27)。知恵婦人は霊気治療所のあった土地を寄贈され(面積は不明ですが)、今ではその宗教団体の建物一群が建っています。

林・高田さて、霊気をハワイへ伝え、その後全世界に広まるきっかけを作ったのはハワイの日系二世の高田はわよ先生でした。高田さん は重い病気になり、日本で手術を受けるために1935年に帰国し、手術台へ上がりました。その手術直前になって、「手術を受ける必要はない!」という誰かの声が聞こえ、自分の判断で手術台を降りまわりを困惑させ、結局 別の治療法を探すことにしました。しかしその主治医の妹さんが霊気で救われた経験があり、そこで林忠次郎先生の治療所で治療を受け、結果的に4ヶ月で完治することになりました。

当時の高田さんはそれで、自分も霊気が使えるようになりたいと思い、入門を希望しましたが、最初は「日本人ではない」ということで断られるだろうと言われます。そこで高田さんは前出の主治医に、林先生宛に手紙/紹介状を書いてもらうことを懇願しました。その主治医の手紙を読んで感激した林先生は、臼井霊気学会に掛け合い、高田さんの入門の許可を得ました。高田さんは無事に初伝の伝授を受け、1年間インターンとして林先生の治療所で働きました。

高田はわよ高田先生はその後、ハワイに林先生を迎えてセミナーを行なったり、ハワイに帰国後直ぐに活動を開始し、レイキを実践 してゆきました。高田先生が林先生から最終秘伝を受けられたのが1938年でその3年後には真珠湾攻撃があり、日米開戦となってしまったので、本当に微妙なタイミングです。ハワイの日系人は敵視されて収容キャンプに集 められたししたようですが、高田先生はキャンプには入らずに済んだようです。ただ、戦争当時の高田先生の活動に関してはまったく資料が見つかりません。

戦後直後には、高田先生は日本の霊気とは離れて独自の道を歩まれるようになりました。実は、西洋レイキというのはこの高田先生が伝統霊気から分離して、実践・伝授していったレイキそのものなのです。

(日本の書籍やHPでは「高田先生」ではなく「高田女史」という敬称を使うのが目立ちますが、これはあまりにも明かな男女差別です。男性には先生を使って、女性は女史ではあまりにもイメージが違いすぎますね。昔はそいうのが慣習だったのかもしれませんが。)

西洋レイキ

高田先生自信は林先生からの純粋な日本の霊気を習得していたにもかかわらず、高田先生がお弟子さんに伝えていったレイキは多少味付けの違うものになっていました。また高田先生のお弟子さん達も、西洋レイキの独自の発展を作り上げてゆきました。

高田先生によって伝統霊気→西洋レイキの過程で変えられてしまった最大の要素は、伝統霊気が中心な目的としていた医療的な治療が西洋レイキから落ちてしまったことです。これに伴って霊示法や病腺霊感法などの治療に必要な概念・方法や血液交換法などの手技が後年なくなってしまいました。高田先生自身は林先生の治療所で一年間のインターンを経験されているので、伝統霊気の治療的な側面は実践してきたし、ご自分自身が大病を霊気で救われたのですから、この変更は非常に意外です。おそらく苦渋の決断をされたのではないでしょうか。米国でも日本と同じように医療従事者でなければ診断や治療は出来ないのが法律ですからレイキを普及させるためには、その要素はあえて外さなければならないと考えたのかもしれません。前出のFran Brown (著)「Living Reiki: Takata's Teachings」によると、ヒーラーがノートや記録を取ると診断や診察的な事になりやすいから、ノートや記録は一切取らず、そういうことは医療従事者に任せるべきだと教えたそうです。

伝統霊気→西洋レイキでなくなってしまったものに、修行法というか訓練法があります。これは伝統霊気の病腺霊感法に関係した部分もあるので、その流れかもしれませんが、西洋レイキでは「訓練は不要」と言うことがことさら強調されすぎた嫌いがあります。普及させるために敷居を下げると言う面ではプラスの面がありましたが、意識の高いヒーラーを良い方向に導くという点ではマイナス面もあったかもしれません。また、その代わりという側面もありますが、西洋レイキではシンボル・マントラの力を重視しています。これも修行をしない代わりに、シンボル・マントラの力を借りて自分の力を発揮するという面ではプラスですが、シンボル・マントラを過度に重要視するあまりの弊害も見られると思います。

逆に伝統霊気→西洋レイキで大きく加わったものとして、ヒーリング(精神的)という側面があると思います。これは治療が抜け落ちて、法律には引っかからないヒーリングという面が前面に出てきたのだと思います。特に、ヒーラー自身に対するヒーリング効果という点で、西洋レイキは自らの癒しが欲しい方に非常に受け入れられてきたと思います。オーラやチャクラといった組合せのヒーリングも高田さんのお弟子さんの台から導入され西洋レイキに定着したものですし、モノや場所などの浄化という概念も西洋レイキで本格的になったものです。このヒーリングという側面では、これは私見ですが、日本の伝統霊気はどちらかというか男性的というか、男性の施術者が多かったと思うのですが、西洋レイキはその波長がとても女性的になったのではないかと思います。そういう意味で女性への窓を大きく開いたというとても重要な事を成し遂げたのではないでしょうか。

また習得の容易さと、その容易さを一つの宣伝文句として使ったことは伝統霊気→西洋レイキで大きく加わったものです。悪い言葉で表現するとマクド○ルド化した霊気とも言えるかもしれません。受講やアチューメントの料金も高田先生のお弟子さんの代からは、徐々に降下して行き、今日誰でも気軽に受けられる料金になったのも特徴です。(戦前の伝統霊気で入門し、また師範になるためには非常に膨大な費用がかかりました。)このステップがなければ今日のように世界中で何百万人のレイキヒーラーが活躍することはあり得なかったと思いますし、そして今ここでレイキの歴史を書いている僕自身さえもレイキ・霊気に接することは絶対になかったのではないかと思います。

高田はわよ→22人のマスタ

高田先生が戦時中、そして戦後どのように霊気・レイキを行なっていたのかという記録はありません。当時の高田さんの情報が多少ともなり載っている資料は、前出のFran Brown著「Living Reiki: Takata's Teachings」John & Lourdes Gray著「Hand to Hand」があります。John Grayは高田先生の22人の3番目のお弟子さんで、比較的長く高田先生と時間を過ごされていた人です。また、最近の本ですが、Bronwen & Frans Stiene著「The Reiki sourcebook」はこれらの本及び他の資料からその辺の経緯がよくまとめられています。

高田先生は戦争が終結してから1950年頃に一度、来日し、林先生の元治療所を訪れています。その時はすでに治療所としては機能していませんでした。日本側の情報も高田先生が来日して千恵婦人と会ったという点で一致しています。その時高田先生は、日本では後を継げる状態ではないと理解されたようです。

高田先生のサロン高田先生は戦後はしばらくハワイ島のヒロ(コナと反対側)で、レイキの施療をされていたようです。実は、今現在もハワイ島のヒロには高田先生がレイキの施術をしていた家がそのまま残っています。これはヒロのキラウエアという大通りに近い所です。リゾート地のコナとは気候が正反対のヒロは一年中雨が多く、日本人の観光客は訪れることのない町です。実は私は、レイキを始める前の仕事でヒロには何度か訪れていますが、高田先生がレイキに使っていた家があったとは驚きました。高田先生の看板この家は高田先生のあとに別の人が買って、レイキではないですが今もセラピーの仕事に使われています。現所有者が買ったときに家の地下に昔の看板が残っていて、それが今は貴重な資料として展示されています。画像(→)をクリックして大きなものを表示してみてください。この看板は少なくとも一回塗り替えられていますが、その下には『高田霊氣治療院』の文字が見えます。私の判断で下層の文字を再現してみました。レイキ関係者にとってはこの看板は涙が出るぐらい感激だと思います。この家の資料によりますと、高田先生はこの家を1939年に購入して、1950年ぐらいまで使って、その後ホノルルへ移ったようです。当時、ここで高田先生がどのような感じで施療されていたのかは想像する以外にはありません。高田先生はここで、ロミロミのセラピストを置いて、1階ではロミロミ、2階でレイキをご自身がしていたとの事です。塗り替えられた一番上の層には「H. TAKATA」の文字がありますが、レイキという文字はなくなっています。(高田先生の家と看板のこれらの写真は、ハワイ在住の受講生の岡崎祥子さんの撮影です、ありがとうございます。)

その後の高田先生の活動は全く良くわかっていません。主に、ハワイでトリートメントを中心にレイキをされていたようです。John Gray氏が聞いた話では、Doris Duke(大富豪の娘)に気に入られ、専属のレイキ施術家として日常レイキをして世界をついて回ったとも記されています。

高田先生がレイキを教え始めたのは1970年代で、最初は日系人を対象に教えていたそうです。(想像ですが、最初はレイキとは異文化の純粋なアメリカ人に教えるのを意図的に避けたのかもしれません。)最初に、一般のアメリカ人向けにセミナーを持ったのは1973年にワシントン州が最初であったとのことです。その後、少しづつ各地でセミナーを開催しましたが、1975年に心臓の具合が悪くなり、引退することを想定して活動してゆきました。1977年までにJohn Gray氏を含めて3人のマスターを育成し、この3人が後を継ぐのだという手紙を諸氏に送付しています。しかし、その後亡くなる1980年までに、更に19人のマスターを育成することになります。

では次に、高田先生→22人のマスターとレイキが伝わったときに、どのような技法が伝えられずにいって、どのような西洋レイキの要素が付け加わっていったのかを見て行きましょう。

病腺・ヒビキ:これはどうやら高田先生が弟子達に伝えなかったようです。その代わりに高田先生は今日で言うところの12ポジションを確立した様です。前出のJohn & Lourdes Grayでは病腺やヒビキのことは一切出てきません。逆に、John Grayはオーラやチャクラをスキャニングする方法を自分が開発した方法として紹介しています。John Grayは同時に高田先生がスタンダードポジションを確率したことを非常に高く評価していますので、病腺・ヒビキは全く知らなかったのではないかと思います。(実はレイキを本当に実践して、自分の感覚に正直になればヒビキの感覚は知らなくても得られるはずです。現に動物のレイキを専門にしているアメリカの本にはヒビキの感覚があることを記述しています。)

血液交換法:高田先生が自身のクライアントには血液交換法を施術していた事がJohn Grayの著書に書かれています。しかし、その手技がマッサージに近く米国の多くの州ではマッサージライセンスがないと施術できないために、John Grayは自身の生徒には教えていないとあります。その代わりに同様な効果が得られる「パターン」を教えているとありますが、それは今日の西洋レイキでは残っていません。

ハンドポジション:今日で言うところの、決まった部位にレイキを送って施術してゆくというのは高田先生が戦後ハワイで長期間にわたって施術の経験をして行く中で確立した様です。John Grayは林先生の作った療法指針を知っていましたが、様々な症状に対して似たような部位が出てきたり、一つの症状に多くの部位が出てきたり、なんて煩雑なのだろうという印象を持っていました。これは実は今日でもそうなんですが療法指針は多くの人が誤解をしています。病腺・ヒビキを知らない人はああいった療法指針をみると「その症状に対して指示されている部位を順番に全部レイキしていかないといけない」と理解します。しかしそれは誤解で、それらの部位はあくまでその症状の時にヒビキが出やすい部位としての意味なのです。John Grayはそのことを全く知らなかったので「なんて煩雑で複雑なのだろう」と勘違いしているわけです。だから高田先生がスタンダードポジションを確立したことをやたら高く評価しています。高田先生がヒビキを放棄してなぜスタンダードポジション一本に絞ったのかは謎です。高田先生自身は林先生の治療所で一年間インターンしていたのでヒビキは熟知していたはずなんですが・・・。

高田先生のスタンダードポジションは、お腹に4ポジション、頭に3ポジションが基本であとはクライアントによって補助ポジションを入れていました。これをベースにしたJohn Grayのハンドポジションは彼の本に丁寧に説明されています。今日、標準的に行われている形はまた、それ以降のレイキマスターによって作り出されてものです。

オーラー・チャクラ:高田先生はオーラやチャクラは教えませんでした。これはお弟子さんの代になってニューエージの手法や他のヒーリング法、アーユルベーダーなど他の要素から取り入れられたものです。

霊示法:これは高田先生はBeth Grayなどの直感力の優れたごく一部の弟子にしか教えなかったようです。高田先生自身は1936年の日記の中に「Mr. Hayashi has granted to bestow on me... Leiji-ho - the utmost secret in the Energy Science」と書かれています。しかし、こういった直感テクニックは第1世代の弟子のあとは途絶えてしまいます。

乾浴・レイキシャワー:調査中

シンボル・アチューンメント:これに関してはここでは詳しく書きませんが、基本的には林先生のテクニックが伝わったようですが、アチューンメント法などは高田先生は厳密には同じ方法ではなく、直感でその都度変化があったようです。

以上、どのような技法が伝えられ、伝えられなかったのかを見て行きましたが、高田先生の判断は当時のアメリカでレイキを広めるためにはおそらく必要な判断がされたのだと想像しますが、分らない部分もあります。

高田 VS 臼井霊気療法学会

高田先生

レイキの歴史を調べて感じたことで、とても印象に残ったのは高田先生が伝統霊気を修正し普及させたことと、かたくなに伝統?を守る臼井霊気療法学会の対比でした。そして、その分岐を生み出した戦争そして占領という悲惨な体験です。

戦争のことはたぶん、レイキの書籍に記されているよりもはるかに重くのしかかっていたと思います。なぜなら、霊気は当時海軍の内部で認知されており、実際に臼井霊気療法学会の会長には海軍少将が歴任されていました。林先生自身も海軍出身です。(実は1930年代の当時の日本海軍を指導したというアメリカ人の方から直接にうかがった話ですが、当時の海軍は技術も考え方も極めて進歩的で、たぶん世界一の実力を持っていたのではないかと評されておりました。)林先生は高田先生との関係で、ハワイでの活動もされておられましたが、もしも日米開戦となった時は、ハワイは最大の攻撃目標になることは日米の間にあるハワイの地理的重要性からいって明らかだったのではないでしょうか。考えても見てください、自分が教えて育てた弟子の、そして自分が霊気を広めて行ったハワイが、臼井霊気療法学会とつながりの強い霊気を認知している日本海軍が、攻撃して戦場にしてしまったらと、林先生の心中はいかばかりのものであったかと心が痛くなります。林先生は1940年に自殺でなくなったと伝えられていますが、霊気・海軍・戦争・ハワイの渦に耐えられなくなったのかもしれません。

1931年 9月18日 満州事変
1936年 2月26日 2.26事件(陸軍クーデター未遂事件)
1937年 7月 7日 日華事変(日中戦争)
1937年 2月13日  日本軍、南京を占領
1938年 4月 1日  国民総動員法

1939年 4月 5日  映画法公布、事前検閲の強制
1939年 6月16日 ネオン、パーマ廃止
1939年 9月 1日  ドイツ空陸軍がポーランドに侵攻(第2次大戦勃発)
1939年10月18日  政府が物価、賃金などを一斉に凍結

1940年 2月13日 米穀配給統制規則
1940年 5月10日  ドイツ、ベネルクス3国を爆撃
1940年5月10日 林忠次郎没
1940年 6月 1日  6大都市で砂糖、マッチの切符制実施
1940年 6月 3日  独空軍、パリを爆撃
1940年 6月10日  イタリア、英・仏に宣戦布告
1940年 7月 7日  ぜいたく品の製造販売を制限
1940年 8月 1日  東京の食堂・料理店、米食使用禁止、販売時間も制限
1940年 8月 8日  小麦粉等配給統制規則
1940年 9月23日  日本軍が北部フランス領インドシナに進駐
1940年 9月27日  日独伊三国同盟
1940年10月12日  大政翼賛会結成
1940年11月 2日  国民服令が公布,国民服着用が奨励
1940年12月      言論統制・世論誘導を目的に情報局が設置

(1940年は近衛文麿内閣によって日本が急速に戦争体制に入った年
でした。「ぜいたくは敵だ!」など精神面でも国民動員が始まって
行きました。欧州ではドイツ・イタリアがすでに戦争を始めており、
日本は日独伊三国同盟を経て英米とは完全に敵になります。)

1941年 7月     日本軍が南部フランス領インドシナにも進駐
1941年10月    東条英機内閣成立
1941年12月8日 日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争)

(三国同盟が締結する以前は陸軍が中国で積極的に戦争を進め、アメリカ
との戦争にも積極的でしたが、海軍は対米戦争は避けるべきだとして
いました。2.26事件をはじめとする右傾化は陸軍が積極的に進めて
来ました。真珠湾攻撃を立案し指揮した山本五十六司令官は実は最後
まで対米開戦に反対しました。対米開戦に反対する山本司令官自身が
開戦の火ぶたを切らなければならなかったのは歴史の大きな皮肉です)

1945年4月〜6月 沖縄戦
1945年7月26日 米英中3ヵ国が日本に無条件降伏を要求
1945年8月 6日 米軍が原子爆弾を広島市に投下
1945年8月 8日 ソ連は対日宣戦布告
1945年8月 9日 米軍が原子爆弾を長崎市に投下
1945年8月15日 日本は連合国に無条件降伏(終戦)

高田先生は林先生の死も知っていましたし、自分が駆使している霊気とつながりのある日本海軍が自分の故郷を攻撃し、多くの人が殺されたということを体験することになります。1941年12月8日真珠湾攻撃。自分が使っているこの日本の霊気で多くの人を助けてきたのに、その日本が自分たちの同胞を殺してゆくのを見るのは一体どんな気持ちだったのか想像もつきません。この戦争中や戦争直後の高田先生の活動や気持ちに関しては残っているものが、一切見あたりませんので、想像するだけですが。

普通の人であれば自分の同胞が殺され、攻撃を受ければ、霊気を棄ててしまっても全然おかしくはないと思います。日本の霊気という風に標榜すれば、それはおそらく周辺のほとんど全ての人の憎しみや攻撃を受けることになったに違いありません。「Remenber Pearl Harbor」として、意気高揚の象徴にもされてきたそのハワイで、その中でも霊気を止めなかった高田先生は、おそらく霊気をその本質から良く理解されて、いたのだと思います。もちろん高田先生をそうさせた霊気のものすごい真実・力もありますが、苦渋の思いで耐えた高田先生のエネルギーがもしなければ、今のレイキはたぶん存在していないと思います。

臼井霊気療法学会

学会は臼井先生が霊気を始めた当初より作られた非常に歴史の古い組織です。当時のことが良くわからなかったり、また今日この学会は非常にクローズドなために、なんだか良くわからないという印象を受けます。

この学会はこのページのはじめの方にも書きましたが1930年(昭和5年)には約7000名の会員を有し、また会長が海軍少将だったのですから、社会的にも認知されておりまあまあのステータスであったと想像します。ただ、この学会で最初から気になる点は2代目会長の牛田従三郎会長(海軍少将)の時に、有力な何人かがこの組織を離れていったことです。これには別の手当療法を発展させていった江口俊博氏、富田魁二氏の二人、そして重要な林忠次郎先生が含まれています。「癒しの霊気法」の著者の土居裕氏はウイリアム・ランド氏へのインタビューで「(林先生が学会を離れたのは)牛田会長との意見の相違が原因ではないかといわれています」と答えています。まあどういう組織にせよ組織とは融通の利かない点はあるかと思うのですが、林先生のような有力な方が抜けられたのはそれなりに何らかの問題点があった可能性も否定は出来ません。

臼井霊気療法学会は会員に社会的な地位のある人たちが含まれていました。海軍関係者もそれにあたりますが、学者、教育者など、政治家(苫米地義三)なども含まれていました。神秘伝を与えられた22名(一説には21名)のうち、約8名は海軍軍人で、他に学校校長、音楽家などがいました。大湊、呉、広島、佐賀など海軍の軍港のあったところは霊気の支部があったそうです。海軍繋がりですと、今の自由が丘(正確には奥沢)に「海軍村」というところがあって、海軍の将校や地位の高い人たちが集まって住んでいたエリアがあります。このエリアでの海軍と霊気の繋がりは不明ですが、興味を抱かせます。戦後の徹底した隠蔽性は海軍人や社会的な地位の高い人が幹部クラスに多かったからかもしれません。

臼井霊気療法学会が戦時中そして戦後しばらくどうなっていたのかという点に関しては全く霧の中です。6代目会長の小山君子先生は、会長になる前から和波先生から指導を受け、かなり活発に活動されていたようです。(臼井霊気療法学会では靈氣ではなく”お靈氣”と言っていました。)小山先生の所へはそれなりの数の人が訪れて、施術が行われていたようです。遠隔治療も行われていました。これは今でもそうですが、「学会で霊気療法を受けられるのは会員とその家族だけに限定」されています。入会も紹介のみで非常に制限されています。公開された資料や印刷物、団体としての何らかの登録、またHP、連絡先なども一切存在しておらす、これでは今日の情報社会としては全くの秘密組織、プライベート組織であるといっても言い過ぎではないです。

学会員の方々が戦争中、そして敗戦後にたぶん非常に困難な体験をされ、そういう時期を過ごされ、それでも組織を消滅させずに存続させたことは極めて賞賛に値することだと思います。ただ、今日の閉鎖的な状況は時代を全く理解していないとしか言わざるを得ません。戦後の全てが西洋医学で統制がされていった状況とは異なり、今では非常に多くの代替療法が認知され、実行され、実際に人々の役に立っています。これらは効果はあるが治療ではないという法律的にはグレーゾーンで行なわれていますが、それは多くの施術家やセラピストの方々の気概と将来的な展望を持って行なわれているためです。「伝統霊気は治療になってしまうからオープンに出来ない」というのは私から見ると言い訳にしか聞こえません。実際に多くの西洋レイキのヒーラーはグレーゾーンでも治療的な観点から活躍しています。要するにやろうと思えば現在の法体系のなかでも活動できるはずなのですが、それをやらないのは単にやる気がないだけなのだと理解せざるを得ません。本当にやる気があれば、すでに敗戦の影響がなくなった80年代からそういう準備が出来たはずです。今日の社会環境でこの様な閉鎖的な霊気を維持することは霊気を単なる会員の間の趣味におとしめていると言われてもしょうがないのではないでしょうか。少なくとも臼井先生が霊気を始めたときに出来るだけ多くの人の役に立ちたいと思われた大事な志は残っていないと思えます。五戒の「業をはげめ」とおっしゃっているのは単に学会会員のためだけに行なえばそれで良いのでしょうか。私の想像ですが学会は日本的な「沈黙は金なり」「君子危うきに近寄らず」等々の体質が戦後の困難な時期に身に付いてしまって(それは当時は必要なことではありましたが)、そして入会が難しいので、若い志のある人は入らずに新陳代謝も出来ず、現在の出口のない状況になってしまったのではないかと想像します。わたしがここでいくら今の学会に関して辛辣な言葉を並べ立てても、たぶん年齢層の高い会員の方々はこのHPをご覧になる機会もないのではないかと思います。

臼井霊気療法学会は戦争そして敗戦による非常に困難な時期を乗り越え、臼井先生の伝統的な療法を現代にまで存続させるという偉業を成し遂げました。しかし、それと同時に霊気を使う、霊気を役に立てるという本来の臼井先生のとても大事な意志をなくしてしまったと思います。そして変革できない抜け道の見えない状態に自らを追い込んでしまったのだと思います。私が思うに、私たちは現在の臼井霊気療法学会に対して何かを期待するというのはたぶん大きな間違いだと思います。最近になって、臼井先生の伝統的な技法やテクニックは徐々に明らかになっていますし、臼井霊気療法学会がなくても霊気そしてレイキの実践には私たちは支障がないと確信しています。ただ、やはり日本人として私たちが臼井霊気療法学会から何の情報や助けも得られないというのは、なんとも残念、なんとも歯がゆい、なんとも悲しいと痛烈に感じます。

高田先生 VS 臼井霊気療法学会

この両者を比べて私はとても興味深いと思いました。高田先生は林先生から伝統的な霊気を完全にマスターしていたにもかかわらず、治療的な側面、自己鍛錬的な側面、などを棄ててしまい、また霊気の歴史や臼井先生の略歴などに関しても事実とは違うことを伝えておられました。これらはおそらく日本海軍の攻撃を受け、同胞を殺されたハワイの人々にその日本の霊気を受け入れてもらうために高田先生が取ったやむを得ない策ではなかったでしょうか。(高田先生は臼井先生がキリスト教の牧師であったとか、同志社大学の学長であったとか、シカゴ大学に留学していたという略歴を伝えており、欧米のレイキ書籍の多くがこの誤実を載せています。)治療→ヒーリングという変化も当時の西洋医学の流れ上、法律上、存続させるためにはやむを得ない措置だったのではないでしょうか。これらの修正を経たモノが西洋レイキとしてNewAgeブーム、精神世界ブームの中で大きな認知を得ると同時に、世界中に広まっていったわけです。その一方で、日本の霊気は戦後はただ消失しないことを主目的に隠蔽されそのまま今日に至っています。高田先生はその時代に社会的には受け入れらにくい点は修正して、伝統から変化しないことをあえてあきらめ、その代わりに多くの人にレイキを使ってもらう道を選んだのです。それによって実にたった一人のマスターからなんと世界中の数百万人以上の人にレイキを伝えることに成功したのです。その一方で、ただ昔のままのモノを存続させ、時代との整合性は考えず、変化を良しとしない臼井霊気療法学会は本来は日本人の財産である霊気の存在を世に知らしめることもなく来ています。

伝統霊気の情報が明らかになってきた最近では、欧米の書籍の中には高田先生が、伝統的な霊気を修正し、「誤った」情報を伝えたというトーンの記述がありますが、これは逆で、だからこそ今日の西洋レイキがあるのだと思います。高田先生はある時点で苦渋の選択をされて、だからこそ我々がレイキそして霊気と出会うことが出来るようになったのです。もしかしたらこういったことは高田先生が日本人ではなかったら出来たのかもしれません。日本人であったらやはりもっと伝統にこだわってそういったことはできなかったと思います。

高田先生、臼井霊気療法学会、この対照的な両者はそれが及ぼした社会的影響も極めて対照的です。私はやはり高田先生の選択は正しかったと確信しています。

女性と霊気

霊気の歴史を調べて私がとても強く感じたのは、女性の偉大さです。実は、現代のレイキ・霊気へつながる道を造ったのはすべてが女性なのです!もちろん、一番古くは高田はわよ先生です。高田さんがいなければ、霊気は西洋には伝わっていませんでした(ハワイで霊気をされていたかたもいたようですが、今には伝わっていません)。そして、臼井霊気療法学会の6代目会長の小山君子先生。この方はとてもアクティブな女性だったようです。小山君子先生が土居裕氏を臼井霊気療法学会へ引き入れていなければ、現在のように伝統霊気の情報は知られていなかったかもしれません。少なくとも何らかの志があった人だと思います。そして、直傳靈氣の山口千代子先生です。この場合はもちろん息子さんの山口忠夫先生がきっかけではありますが、戦後一貫して使い続けてきたのはすごいです。山口千代子先生がいなければ、当時の林先生の技法というのは明確にならないままでした。女性はいざというときに生命力が豊かなんでしょうね。

日本の西洋レイキ

日本に最初に西洋レイキが逆輸入されたのは、ニューヨーク在住ジャーナリストでアメリカレイキ団体Radiance Techniqueのレイキティーチャーの三井三重子氏が日本で1984年よりセミナー・アチューメントを始められたのが最初のようです。三井氏はまたBarbara Ray氏の「The Reiki Factor」という本を1987年に「レイキ療法」として翻訳出版されました。ただ、三井氏はレベル2までしか指導できませんでした。

その後、日本での本格的な導入は実質的に日本人を奥様に持つ札幌在住のドイツ人Frank Arjava Petter氏によって、1990年代初めにごろからなされました。ペッター氏はレイキ・アライアンス系の流れを受けはいますが、いわゆるフリー・ラインの系統で、日本でレイキマスターの育成を始めました。実は、大部分の日本のマスターの大元はペッター氏に行き着きます。例えば現在○ルテックスを主催し「癒しの手」の著者でもある望月俊孝氏や同団体マスターの高橋氏はペッター氏からアチューメントを受け、彼らのスクールを立ち上げました。他の多くの団体のリーダーもペッター氏からアチューメントを受けて始められています。こうして日本での西洋レイキが確立してゆきます。ですので、実質的に日本の西洋レイキはペッター氏が陰の原動力になり浸透していったということです。また同時に望月俊孝氏の書かれた「癒しの手」と氏の団体が普及という意味では大きな働きをしたのは事実です。

ペッター氏が日本に在住している目的は、日本の伝統霊気の情報を発掘し、研究することが含まれていました。実は、我々が今日伝統霊気の情報を(公に)得ることが出来るのは彼のおかげである部分が少なくないのです。ペッター氏は多くの著書を書かれていますが、「靈氣療法必携」によって伝統的な臼井霊気の技法や世界観を世界に公開しました。この靈氣療法必携は原本は存在していましたが、一般には知られていませんでしたし、昔の文体ですので私などには全く読めません。また、最近では直傳靈氣®の山口忠夫氏と共著で、「The Hayashi Reiki Manual」を出版し、林先生の伝統的手法を世界中に知らしめています。

ペッター氏が日本のレイキそして世界のレイキにこれだけの貢献をしながら、日本での認知度が必ずしも高くないのは氏が団体にはかかわらず、個人のスタイルで活動されているからかもしれません。また同時に、彼のスタイルとして日本語の著書を書かないということもあります(奥様は日本人ですからやろうと思えば出来るはずです)。こういった点は○ルテックスの望月俊孝氏と極めて対照的です。もちろん望月氏は日本のレイキにとても大きな貢献をしていますが、私はペッター氏に圧倒的な親近感を覚えます。彼自身は彼の著書「The Spirit of Reiki」の中で、「私は日本で最初に一般の人たちへ西洋レイキの全レベルを教え始めたけれど、私がそうやって教えた日本人グループからはいまだに受け入れられていない。なぜなら彼らにとっては私は基本的に存在しないからだ。」と外国人であるための疎外感を書いていらっしゃいます。ペッター氏の認知度は氏の功績を正しく反映するように、もっと広まってゆくべきだと思います。また同時に彼の著書は日本語でも出版されて行きべきだとも思います。

レイキと霊気の統合・比較

アメリカで広まった高田先生を元にした西洋レイキは、少しづつ進化しながら世界中に広まってゆきました。しかし、その一方で伝統的な霊気がどのようなものであったのかという疑問は常に西洋レイキ実践者の心のどこかにはあったのではないでしょうか?

今日では幾人かのフロンティア精神の持ち主達によって、伝統霊気の情報が徐々に明らかになり、西洋レイキが本格的に日本に入ってきた90年代とは比べものにならないほど、伝統霊気の情報は復元されています。特に日本でレイキを実践されている多くのマスターはこの伝統霊気の情報を最大限に取り入れていると思います。

ただ一人西洋レイキとのチャンネルを持ちながら臼井霊気療法学会の会員になられた土居裕氏の著書「癒しの現代霊気法」は1998年に出版されました。また前出のフランク・ペッター氏の「靈氣療法必携」は1999年に出版されています。私が西洋レイキを初めて学んだ2001年にはすでに、これらの情報がテキストにふんだんに取り入れられていました。私が習ったときは、西洋レイキではこう、伝統霊気ではこう、と並列して違いを教わりました。そして「あー、伝統霊気の考え方はとてもまともだ」と最初からとてもフィットしました。また1999年には、林忠次郎先生から霊気を受け継いだ山口千代子・忠夫親子さんが「直傳靈氣研究会」を発足され、生の伝統霊気を学べるようにもなっています(実は私も直傳靈氣®のセミナー・霊授を受けています)。この直傳靈氣®からの情報は山口忠夫先生の「直傳靈氣」やフランク・ペッター氏の「The Hayashi Reiki Manual」によって全世界に発信されて、今や共通の認識・財産になりつつあります。

こういった背景のある現在では、特に日本では西洋レイキと伝統霊気が厳密に分離して存在するという構図は崩れつつあります。どちらかというと西洋レイキが伝統霊気に歩み寄って、その距離を少しづつ縮めている段階にあるのではないかと思います。ただ逆に言うと両者のはっきりとした特徴はありますので、私の全く個人的な見解ですが西洋レイキと伝統霊気の簡単な比較をしてみたいと思います。

  西洋レイキ 伝統霊気
エネルギー 臼井霊気 臼井霊気
儀式性
装飾性
オーラ・チャクラ 多用 なし
精神世界との関連 かなり少ない
雰囲気 女性的、洗練されている、軟派 男性的、質実剛健、硬派
ヒーリング 非常にヒーリング的 悟り+治療(学会) 治療的(林)
未来・過去ヒーリング あり 現在の遠隔のみ
メンタルヒーリング 多用 性癖治療としてのみ
願望成就 そのための技法あり なし
アチューメント 1回に時間をかける 1回は短く回数が多い
シンボル・マントラ まずシンボル・マントラありき、
そしてその持つ効力は・・・
と教える。
まず患者・治療ありき、
そして印・言霊はあくまで
そのための補助。
神聖視されがち 神聖視しない
複雑な使い方 シンプルな使い方
五戒の位置づけ 大事 非常に重要視
人以外への用法
病腺 あまり扱わない 病腺が治療の基本
鍛錬 重視しない場合も 非常に重要
ティーチャー習得期間 最短で数日の場合も 数年〜10年
スタンダードポジション 多用する場合も なし

更に詳細な比較はここをご覧下さい

以下に多少の補足をしますと:

○エネルギー
これは難しい判断かもしれませんが、私が直傳靈氣®の霊授や手当てを受けたときに感じたのは、従来からの西洋レイキと同じエネルギーと感じました。これは私が鈍感なのかもしれませんし、あるいは林先生の流れだからかもしれませんが、「やっぱ同じなんだ」と思いました。

○儀式性・装飾性
西洋レイキの場合は自己浄化やいろいろのプロセスを大事に教えます。形を重視している、ヒーリングする側の雰囲気作りを重視していると感じました。一方、伝統霊気とくに直傳靈氣®の場合はそういったある意味で治療に影響ない部分というのは重視されていません。

○精神世界など
西洋レイキはもちろんニューエイジや精神世界と共に発展してきました。伝統霊気ではもちろん精神性や魂はとても大事ですが、ニューエイジ的思考や精神世界的考え方とは違いがあります。他の西洋的なヒーリングと組み合わせる場合は西洋レイキが整合性が良いと感じます。

○アチューメント
これは根本的に違うというのではなく、細部の違い、多少の技法が違うという程度です。(もちろんそういった違いを大変に重視される方もいます)大きな違いは、西洋レイキではアチューメントは時間をかけて行なうこと、伝統霊気では1回の時間は少ないけれど回数が多いと言うことです。

ここでは単純に西洋レイキと伝統霊気としましたが、厳密に言えばマスターやスクールによってその温度差はあるでしょう。香りの森や他の多くの日本のマスターのように西洋レイキでも伝統霊気の良い面を取り入れたりしているところもあります、伝統霊気でも臼井霊気療法学会と林先生の系統では差があるはずです。あくまで大まかに理解するためとご理解下さい。

これもやはりどのように考えるかはマスターによったり、個人差がありますが、伝統霊気が西洋レイキよりも優れているとか、その逆とか、そういう優劣があるとは私は思えません。やはり、ある一つのものを別の方向から見たその現れ方の違いであると思います。

霊気と鞍馬

臼井先生が霊気を見つけた鞍馬・鞍馬寺はレイキの業界では特別なステータスがあるように思います。しかし、これは戦後の西洋レイキがレイキを鞍馬に結びつけて構築したという面があるように思います。

鞍馬寺は、源氏物語や枕草子などの平安文学にも記され、その他、牛若丸(正確には紗那王の時代)が天狗に武術を学んだと言う伝説でも知られています。鞍馬寺の元々は、8世紀末(いわれでは770年)に鑑真の弟子・鑑禎が毘沙門天を祀り、のち796年に北方守護の霊地という位置付けで、藤原伊勢人という長官が千手観世音を併せて祀り、鞍馬寺としての基本的機能を揃えたのが始まりだとされています。 その後、天台宗から真言宗派に代わり、またしばらくして天台宗に戻りました。戦後占領下で宗教法人の整理が起こったときに、昭和22年、鞍馬寺は「鞍馬弘教」の総本山として天台宗から独立して、鞍馬弘教総本山となったという、歴史を辿る寺院です。現在の鞍馬寺の本尊は、さらに護法魔王尊を加えて、毘沙門天王・千手観世音菩薩・護法魔王尊の三尊であり、これを三位一体の「尊天」として祀っています。

この鞍馬弘教の教えは神道あるいは仏教としては特異で、「宇宙の大霊、大光明、大活動体である三身一体(さんじんいったい)の尊天(そんてん)を教義の上に確立し」とあり、この尊天とは「この世に存在するすべてを生み出している宇宙生命・宇宙エネルギーのこと、神仏の区別を超えてエネルギーとなりあわられるもの」となっています。「神仏の区別を超えて」というのは宗教としては特異で、精神世界的、ニューエージ的といえますね。

セラピュ-ティック・タッチ


 
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