林先生のハワイでの活動

香りの森
武蔵野市境5-18-13
 0422-56-8230
  お問合メール

林忠次郎林忠次郎先生は、1937年10月~1938年2月までハワイに滞在して、高田ハワヨさんと一緒に靈氣普及の活動をしました。漠然としたことは以前から分かっていたのですが、最近トロント大学で宗教の研究をしている大学院生Justin Stein氏と早稲田大の平野直子氏が、当時のハワイ報知の記事を発掘して、詳細が明らかになりました。Stein氏は彼のサイトで主要な記事を紹介していますが、彼の記事では全容が分からず、また歴史的な分析が加えられていません。Stein氏が見つけた記事は直傳靈氣のグループでもその一部が取り上げられていますが、一部誤解されている面もあり、正確な把握が必要だと感じました。

今回、1937年9月~1938年6月のマイクロフィルムを調査して、靈氣関連の71点の記事・広告を見つけました。(新聞原本はハワイBishop Museumの所有、国立国会図書館の予算でフィルム化) これまで知られていなかった事実や写真も含まれています。ここで私なりの分析を加えながら全て公開します。手っ取り早く、まとめをご覧になりたい人はここをどうぞ

このハワイ報知の記事は、日本の国立国会図書館の新館4階の新聞アーカイブに入っています。一部の重要記事は原文をタイプしておきましたが、旧字体がかなり多く苦戦しました(笑)。間違っている部分がありましたらお知らせ下さい。

2017年1月 仁科まさき

2017.01.14 高田先生の渡航履歴を追加
2017.01.14 野田サエ子、青山文記氏の情報加筆
2017.01.18 1938年4月~6月の記事を追加
2017.01.20 林先生データ追加
2017.03.19 英語へ翻訳(岡崎真理、Mike McCarty)
2017.03.29 更新(Justin Stein他からの情報)

The English translation of this page is available here.

2023年2月に、T.H.さんという靈氣と関係ないハワイの日系人の歴史を調べている方から、ご親切に情報を提供して頂いて、その情報を付加して、さらにオンライン(https://hojishinbun.hoover.org/?l=ja)でマイクロフィルムがない邦字新聞の情報も調べました。この、邦字新聞のデーターベースは、OCRされた日本語で検索できるので、まだ埋もれている情報が発掘できるかもしれせんので、ご興味ある方はトライしてみて下さい。「靈氣」ではかなり検索しましたが、他に人の名前でも検索すると良いと思います。

2023年3月 情報追加
高田先生以前にハワイで靈氣を提供してる2人がいました
高田先生はマスターになる前から靈氣治療を提供してました
高田先生の教え子(土屋青芽)が雑誌に靈氣の記事を書いていました
高田先生はシカゴのラジオ放送に出演していた
高田先生は戦争末期に靈氣の広告を再開していました
戦後まもなくハワイで靈氣を提供してる人がいました
高田先生はホテル支配人だった

 

高田ハワヨ 高田ハワヨ先生の足跡

高田先生の渡航歴に関しては、これまで曖昧な部分がありましたが、今回ほぼ完全に把握できました。これは、米国のサイトで古い個人情報を調べられるサイト(www.ancestry.com 有料)があり、そこで高田先生の乗船記録・登場記録が見つかりました。年齢も書いてあるので、本人かどうかはほぼ間違いないと思います。同姓同名の人はいなかったと思われます。

まずは個人情報から
髙田ハワヨ個人情報
誕生日は12月24日。家族情報の部分もありますが、ここでは出さないことにします。1930年の時点の住所はカウアイ島の"Kawaiahau, Kauai, Hawaii Territory"、ご主人は6才年上の"Saichi"、お嬢様が二人ということになっています。亡くなったのはアイオワ州です。

渡航履歴

1929ホノルル 往:データなし
復:2/25着 <= 2/17発 (Korea丸)
横浜夫同伴
1932ホノルル 往:7/14発 => 7/20着
復:8/17着 <= 8/12発
S.F.
1935
1936
ホノルル 往:10/8発 => 10/xx着 (浅間丸)
復:6/10着 <= 6/2発 (大洋丸)
横浜<- 娘同伴
<- 一人
1937ホノルル 往:6/29発 => 7/xx着 (大洋丸)
復:9/24着 <= 9/15発 (大洋丸)
横浜
1938ホノルル 往:4/16発 => 4/xx着
復:6/9着 <= 6/4発
S.F.
1938ホノルル 往:データなし
復:6/27着 <= 6/21発
S.F.
1940ホノルル
S.F.
ホノルル
往:3/20発 => 3/xx着 (浅間丸)
継:6/16着 <= 6/3発 (浅間丸)
復:7/24着 <= 7/18発 (Lurline)
横浜
横浜
L.A.
住所Hilo
1954ホノルル 往:データなし
復:10/23着 (パンナム)
東京
1955ホノルル 往:2/16着
復:データなし
L.A.
1955ホノルル 往:データなし
復:8/20着
東京
1957ホノルル 往:2/25着
復:データなし
グアム伴Doris Duke
1957ホノルル 往:データなし
復:6/14着
東京

髙田ハワヨ2これまで知られている渡航の状況と大きな違いはありません。確認が取れたと思います。意外に多く海外渡航しているのが分かります。1929年の来日はご主人と一緒なので、何か家族関連の事情かもしれません。

1940年の渡航は、林先生の亡くなったことに関連しているはずです(帰りに西海岸に寄っています)。高田先生の直弟子さん達の本(Helen Haberly[p39], Fran Brow[p59])の記述では、高田さんが渡航したのが4月、林先生が亡くなったのは5月11日になっていますので(東京朝日新聞の訃報告知)、この渡航記録と整合しています。

戦後に、林夫人と会ったのは、1954年か1955年のどちらかでしょう。1957年のグアム行きは、富豪の娘Doris Dukeに随伴したもので、この頃から既に知り合いになっていたと言うことです。

● 住所
1930: Kawaiahau, Kauai, Hawaii Territory
1938: 1808 S Beretania, Honolulu, massage
1939: 1808 S Beretania, Honolulu, massage
1941: 2070 Kllauea av, Hilo, massage
1942: Hilo, massage

林先生の話から
あとで御紹介しますが、林先生がハワイを訪問して帰国する祭にお別れの言葉をラジオ局で放送しており、それがそのまま新聞記事に転載されています(1938年2月22日)。これは記者が作文した記事と違って、ご本人が話した内容に非常に近いはずなので、この一連のハワイ報知の記事の中では、断トツの価値があり、歴史的に非常に大事な文献になります。この中に高田先生の事が書いてあり:

「一昨々年の冬東京の私の治療所で約半年の間熱心に此法を修業して一昨年七月加哇島に歸り同地で治療と傳授を始めました處、・・・」

「昨年七月夫人は突然私の宅を訪れ私に布哇観光を勧めましたので・・・」

とあります。つまり高田先生は、

 1935年冬(10月中旬) 来日
 1936年6月 ハワイへ帰国
 
 1937年7月 再来日
 1937年9月 ハワイへ帰国

となり、乗船記録と完全に合致しています。 そして高田先生の1937年の再来日で、林先生がハワイに行くことになりました。この時は、ただ林先生に会うためだけに再来日したのか不明です。後でも述べますが、高田先生は最初の来日滞在のあとで、ハワイに帰ってすでに教え始めていますので、おそらく最初の1936年6月の帰国の際に師範の認定をもらったのだと思います。そして、師範になりたいためにわざわざ翌年に来日したのではないでしょうか。でなければ、わざわざハワイから日本まで来る理由がありません。そして、林先生が帰日する時に師範の認定をもらったのではないでしょうか、と推定します。

ハワイの歴史

「ハワイと日本の歴史」というとほぼ100%の日本人は真珠湾攻撃を思い浮かべるはずですが、実は日本とハワイの関わりは非常に古く深い結びつきがあります。しかし残念ながらハワイという小国はやはり支配される歴史になっています。1795年にカメハメハ一世がハワイ王国を建国。その後、色々な国が宣教師や移民を送って影響力を強めようとします。アメリカ(1820宣教師)、中国(1802移民)、英国(1843領有宣言)、フランス(1849領有宣言)、そして日本によってハワイを巡る列強の抗争は激しくなります。

1881年、カラカウア王が来日し、明治天皇と会見し、移民協定が結ばれ、1885年から官約移民が日本からハワイに渡ります。しかし1893年、アメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒します。この時からアメリカの影響力がグンと強まったようです。そして、1898年、ハワイは米自治領ハワイ準州(Territory of Hawaii)となります。

布哇報知 1937年12月10日1面 時代背景

この時代、新聞紙面の多くが、シナ事変の記事で埋め尽くされています。陸軍がどんどんと中国の内地に進行して行きます。そして、南京が陥落(写真→)、青島も陥落、そういった成果が大々的に報道されている時代です。日独伊防共協定が締結されて、日本が日英などの欧米諸国から、反発を受け始める時期です。日本製品の不買運動なども記事として載っています。この時代は、日本が太平洋戦争への決定的な道を、一つ一つ戻れない歯車で確実に進めていく、ちょうどそういった時代です。中国では既に多くの犠牲者が出ているわけですが、最終的にはこれから300万人規模の日本人が死んでいきます。当日は、多くの人はそれと知らずに毎日を過ごしていました。


事前知識

ハワイ地図当時は、ハワイを「布哇」と表記しています。このほかにも、カウアイを「加哇」(北西にある島)、マウイを「馬哇」(ホノルルのあるオアフ島と南東のハワイ島のあいだ)と表記します。(画像はここからです

ハワイ報知(当時は布哇報知)は、現存している新聞社で、1912年設立(明治45年・大正元年)。意外に古くに設立されています。ホノルルにあり、当時はQueen streetに社があり、戦時中は新聞名を「布哇報知」から「ハワイヘラルド」に変更し、1952年に「布哇報知」に戻しています。日本から遠方にはるハワイで、非常に重要な情報源になっていたのだと想像します。

秩父丸新聞では、日本からの船の到着、出航がよく記事になっています。当時は、日本とハワイの旅行は船です。日本郵船が、浅間丸、秩父丸(写真→)、龍田丸の3船をを保有して、主な寄港地は香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコとのこと。当時は、横浜→ホノルルはほぼ一週間かかっています。しかし、戦争が始まると、こういった民間船は輸送船として海軍に徴用されて、秩父丸は1943年4月に(約2,500名のうち生存者465名)、龍田丸も同年2月1481名の全乗員ととも、そして浅間丸は1944年11月に(500人以上死亡) 、どれも米軍魚雷で沈められてしまいます。

当時の為替レートですが、この資料によると、100円が28ドルぐらいです(つまり、1ドルが3.6円)。といっても、貨幣価値自体が今と違うので感覚が分かりません。記事中に、例えば新年会の会費が2ドル、送別会の会費が1ドル、とあります。当時、日本での林靈氣研究会への入門料が50円、つまり14ドルでしたから、やはり円はかなり安いと思われます。仮に日本と同じ入門料や講習料を取っていたとしても、それほどの負担にはならなかった可能性があります。(入門料や受講料については記事では一切触れられていません)

高田先生以前の靈氣1 1927

川島政子
新聞広告を見ると、すでに1927年という早い時代に、臼井靈氣療法を提供している「川島政子」さんがいました。「臼井靈氣」ではなくて「臼井靈氣」となっているので、高田先生と無関係ということがわかります。林先生が臼井靈氣療法学会から独立したのは1928年と思われますので、この川島さんは臼井靈氣療法学会の会員だったはずです。

『北米貿易の支配人川嶋耕作氏夫人政子さんは一ヶ年半の故國滞在中の各方面に就き研究したが中にも楽焼と霊気術、茶の湯は其の道の大家に就いて熱心に稽古した由なるが特に霊気術は六ヶ月の研究で三級の免状を下附されたが是は宇宙の靈氣を一種の精神作用で集めて身體中の痛み場所等を摩擦すると不思議に平癒すると言う不思議の療法なので』

この「三級」という免状も当時の臼井靈氣療法学会のシステムと合致しています。級は六級からスタートします。ただ、この川島さんの靈氣は、このあとは広告は見られず、自然消滅してしまったのかも知れません。

高田先生以前の靈氣2 1929

大竹あき子
大竹あき子2

この「大竹あき子」さんは「心身改善 臼井霊気療法」と称して、また「心身改善」も文字の入れ方も正統的な入れ方で、おそらくは臼井靈氣療法学会の会員だったのではないでしょうか。

これら、川島政子さん、大竹あき子さん、の時代には結果として靈氣は認知されなかったわけで、やはり林先生をハワイまで引っぱってきて、しっかりと広告と活動を広げていった高田先生の行動力と熱意は並大抵のものではなかったのだと思います。

林先生来布以前の高田先生 1936

1936年10月16日 日布時事から
髙田ハワヨ開業

高田先生は、林先生の元で半年間修業して、1936年6月10日に帰布していますが、すでにその年の10月から広告を出して、一般の施術を開始しています。

この段階ではまだ「初傳及び奥傳免許を授けられ」と書いてあって、師範でもマスターでもないですが、積極的ですね! この時にすでに「臼井」という表現を使っています。


布哇報知 1937年9~10月の記事(8点)

林先生は、1937年の10月にハワイに到着しています。9月のハワイ報知を調べましたが、30日以前の靈氣に関する記事は見つかりませんでした(これは目でマイクロフィルムを追って探しているので見落としがある可能性はゼロではありませんが)。


1937年9月30日(木) 7面
布哇報知 1937年9月30日7面

靈氣療法の林忠次郎氏来布 令嬢キヨエさん同伴 土曜日秩父丸で
靈氣療法の大家として著名の東京四谷信濃町林霊気研究會々長林忠次郎氏は令嬢キヨエさんを同伴来る土曜日入港の秩父丸にて来布する由當地の知人に通知があった。靈氣療法に就いては布哇では未だ廣く一般には知られてゐないがヒロ市の牧師樋口貫氏夫妻並びに日本語學校々長田原仲亮氏等は昭和八年五月に靈氣療法の傳授を受けて居り、最近では加哇島カパァの高田ヒロミ夫人が傳授を受けた。高田夫人は夙に[つとに=以前から]東京の研究會から通信教育を受けてゐたが、遂に今年六月日本に行って講習を受け今月二十四日歸布した熱心家である。こうした關係上林氏の来布は豫てから希望されてゐたもので、又林氏の令嬢キヨエさんも結婚前に是非一度布哇を見たいと熱望してゐた所から今回來布となった由である。林氏は當地に於いて希望者があれば講習會を開いて靈氣療法を傳えたいと希望してゐる。又キヨエさんは茶の湯、生花に通暁してゐるのでこれ又希望者には教授を惜しまないといふ。因みに靈氣療法の肇祖は臼井甕男氏で生物生活に必須の「エネルギー」を靈氣と呼んでその靈能を疾病治療上に活用したものであると云ふ(寫眞は林忠次郎氏)

● ここでの重要点は、昭和八年五月に靈氣を習った人がヒロ(ハワイ島)にいたと言うことです。これは林先生持っていた情報なのでしょうか? 牧師の樋口貫氏について経歴は、いくつか資料がありましたが(資料1資料2資料3)、靈氣の話は出てきませんでした。ただ、樋口貫牧師は昭和八年10月に亡くなっているようなので、靈氣を習ったのはその直前ということになります。日本語学校の田原仲亮氏についてはネット上では追跡できませんでした。

● ここで記事として誤解があるのは、高田さんが通信教育を受けていて、この年始めて日本に行って習ったようなニュアンスで書かれていますが、これは最初に記したように誤解だと思います。高田さんが1935年に日本に来て滞在して事は乗船記録からも、また後述の林先生の告別放送からも明らかです。また、告別放送ではこの年7月の高田さんの来日は「昨年七月夫人は突然私の宅を訪れ」とあります。高田さんと林先生は1936~1937のあいだで手紙などのやり取りはあったと思いますが、それは「通信教育」というレベルのものではなかったと想像します。そもそも後述のように、高田さんは1936年にハワイに戻ってから、既に靈氣を教え始めていますので、通信「教育」が必要な状態だったとは思えません。

【新聞の記事は、記者が書いたものですので、その字面だけを取り上げてそのまま鵜呑みにしてしまうのは大変に危険です】

高田さんの名前: 高田さんの名前が「ヒロミ」になっています。実は、次の10月2日(土)の記事でもヒロミになっています。これは高田さんの結婚前の名前が"Hawayo Hiromi Kawamura"となっているためです。Hawayoは英名、Hiromoは和名、でハワイでの習慣とのことです(Justin Stein氏)。10月27日の広告では「ハツヨ」になっています。記事を追っていくと分かりますが、この布哇報知は他にも人の名前を間違えることが多く、単純なミスと思われます。


1937年10月2日(土) 8面
布哇報知 1937年10月2日(土) 8面

靈氣療法の林忠次郎來布 在郷海軍々醫大佐 十二月まで滞在
一昨日の本誌上に紹介した通り靈氣療法の林忠次郎氏が愛娘淸枝嬢同伴、今朝入港の秩父丸で來布し野田義角氏夫人夫妻の案内で挨拶のため本社を訪問した。野田サエ子夫人は林氏と同船で歸布したものである。林氏は十二月まで當地に滞在し靈氣療法の求めに應じ淸枝嬢は希望者に茶の湯、生花を教授する筈。林忠次郎氏は在郷海軍々醫大佐であるが、一切醫藥を使用せず靈氣療法に依って病気治療を為すさうである。加哇島カパアの高田ヒロミ夫人は林氏に就て治療法を習って歸布し施術して居るが先生に是非一度布哇に來て靈氣療法を普及して頂きたいと云ふ高田夫人の希望で林氏が來布するに至ったものである。米大陸にも渡るつもりであるが當分布哇に腰を据えて患者治療に努めたいと林氏の談である。場所その他準備が整ひ次第發表する事になってゐる(寫眞は林忠次郎氏と淸枝嬢)

野田サエ子: この随伴した野田サエ子夫人は靈氣関係の人のようではなく、お嬢様の関係のようです。このご主人の野田義角氏ですが、1905年にハワイで"Asahi ball club"という野球チームを作った"Steere Gikaku Noda"(1892–1986)のことではないかと思われます。この資料によると、奥様の名前は"Alice Sae Teshima"(1894-1964)なので可能性は高いです。この資料には野田夫人は1936年に銀座で美容室を開いたとありますが、これが後で出て来る新聞記事の記述と一致していますので、ほぼ間違いないでしょう。

当時の靈氣のことを追跡するには、知名度の高い人が有利ですが、この野田夫妻は追跡可能だと思います。

軍医: この記事では、林先生は軍医として紹介されていますが、林先生が軍医だったという明確な証拠は現在も見つかっていません。戦前の納税記録では「医師」として納税したと記録が唯一の手がかりですが・・・。

高田さんの名前: この記事でも高田さんの名前が「ヒロミ」になっています。

林先生の乗船記録では、職業が「Master of Hayashi Reiki Kenkyu」となっていて、手書きで「Spiritual Healer」と加えられています。お嬢様の清枝さんは当時26才。


1937年10月7日(木) 6面
布哇報知 1937年10月7日(木) 6面

(加哇支局報)日本に於ける靈氣療法の大家林忠次郎氏は令嬢淸枝さん同伴、師弟の間柄であるケアリア高田夫人の懇望に依り布哇観光旁最近便で來布し去る五日便で來島し[カウアイ島]翌六日午後高田夫人の案内で本社支局を訪ひ挨拶された。本島滞在は一週間の豫定であるが曩[さき]に高田夫人より講習を受けた人々もあり、この機會に更に該療法を一般家庭に廣く宣傳晉及するため講習會を開く事になった。卽ちワイメア[おそらくハワイ島ではなくカウアイ島の]の鶴谷氏宅では明八日から九、十の三日間、カパアでは十二日から十五日まで四日間の豫定で綿村信男氏宅で開くことになった。林氏は帝國總領事館に挨拶のため訪問されたが福間總領事夫人とは舊知の間柄で海外での邂逅を喜んで居られた。令嬢淸枝嬢は生花、茶の湯等に造詣深く東京に美容院を開業してゐる野田サエ子夫人も同道であるが野田夫人も本島には初めてだといふ。靈氣療法は衆知の如く藥物を用ひず靈氣に依って病源を驅除するといふ熱心があれば誰にも出來る療法であると

行程: 10月2日(土)にホノルルに入港後、高田さんの家のある、カウアイ島へ移動しています。清枝嬢と奥田夫人も同行しています。ここでワイメアとあるのは現在の観光地であるハワイ島のワイメアではなく、カウアイ島南西岸のワイメアだと推定できます。

● あとでホノルルへ戻って講習をしますが、その時は五日間で講習をしていますが、ここでは3日、4日と日にちが少ないです。どういうスタイで講習を行っていたのかは不明ですが、もしかしたら、現在の直傳靈氣のように日にちを短縮していた可能性もあります。

● 高田さんは「先に高田夫人より講習を受けた人々もあり」とあるように、ハワイに戻ってからカウアイ島で講習を行っていたのでしょう。これは後で出てくる林先生の告別放送の内容と合致しています。

総領事: 当時、カウアイ島に総領事があったことが、意外にもネットでは確認できません。林先生との知り合いであるという福間総領事の夫人も、追跡できていません。

高田さんの名前: この記事では「ケアリア高田夫人」となっています。後の記事を見てみるとこの部分は「ケアリア高田夫人」という意味のようです。高田さんが住んでいたカパアに隣接して「ケアリア」という地名があるのですが、実際に住んでいたのはカパアのようです。


1937年10月27日(水) 2面 広告
布哇報知 1937年10月27日(水) 2面 広告
15日までカウアイ島カパアで講習をしていたのが、ここではオアフ島ホノルルへ移動しています。

これは高田さんの施術のための広告です。ここでは地名も名前も間違えています。何か酷いですね(笑) 実在するのは「ヌヌア街1633」ではなく「1633 nu'uanu avenue」つまりヌアヌ街です。現在はこの場所にこのホテルはありません。まあ、名前のほうは1文字の間違いですから進歩しました(笑)

●「臼井式」: 現在海外で定着している「臼井式」という呼び名は高田さんが使っていたのだと想像します。日本では戦前では基本的に「心身改善臼井霊気療法」ですから。


1937年10月27日(水) 4面
布哇報知 1937年10月27日(水) 4面

靈氣療法の治療求めに應ず
毎日午前八時から四時迄 舊[旧]三田村病院跡で
臼井式靈氣療法の大家として著名の退役陸軍々醫大佐林忠次郎氏が令嬢同伴で來布中なることは既報の通りであるが來布以來治療を求むる希望者少なからず本日からヌアヌ街一六三三番グローブホテル内(舊三田村病院跡)で施療の求めに應ずることになった、林父子は加哇島ケアリアの高田ハツヨ夫人の客となって來布したもので、高田夫人は先年林氏に師事して靈氣療法を會得して歸布して當局から開業ライセンスを得て施療を行って居り目下出府して林氏父子を世話してゐる。林氏の當地滞在は一ヶ月の豫定であり、その間希望の人数が揃へば靈氣療法の講習會も開き諸人の福社増進のため奉仕したい意向である。講習會の人数は一組五六名乃至十四五人までが理想である由布哇には既報の如く林氏に師事して此の療法を習得した者少なからずそれぞれ家族の者や又は他人に施してその特効を認められてゐる。治療所電話は三三六七

● 高田さんの開業広告が出た同じ日の記事です。ここで前出の広告での「開業」と「開業ライセンスを得て」と特に言及しているのは、それまで公式の認可を取っていなかったのかもしれません。

● 名前と肩書き: ここでも高田さんの名前が「ハツヨ」になっています、林先生は陸軍大佐になっています。


1937年10月29日(金) 4面 広告
布哇報知 1937年10月29日(金) 4面 広告
これでやっと、名前が正しくなりました!(笑)
 
前回の広告では「開業」となっていたのが、これでは「開始」となっています。 nuuanu通り


1937年10月29日(金) 5面 広告
布哇報知 1937年10月29日(金) 5面 広告
同じ日にもう一つ、今度は講習の広告が出ています。
 
そして又名前が、今度は林先生の名前が間違えています。いったいどういう神経で編集してるのか、まか不思議です(笑)
 
ここでは先の、野田夫人も申込先に加わっています。フォート街(Fort street)はヌアヌ街(Nu'uanu avenue)から通りを一本挟んで近くです。

ここでは講習の時間帯が不明ですが、のちの記述から講習は夜の時間帯で5日間行っていたようです。



1937年10月30日(土) 2面
布哇報知 1937年10月30日(土) 2面

靈氣療法講習會
十一月一日から五日間
講師は林忠次郎氏
臼井式靈氣療法の大家として著名な林忠次郎が加哇島の高田ハワヨ夫人の招待客として來布し、目下ヌアヌ街グローブ・ホテル内治療院に於いて施療の求めに應じてゐることは既報の通りであるが、その後靈氣療法習得希望の申込が少くないので昨日廣告の如く來る十一月一日より五日間林氏を講師として講習會を開催することになった、場所はヌアヌ街グローブ・ホテル内、講習申込又はそれに關する詳細は高田ハワヨ婦人電話三三六七か又は野田サエ子夫人電話三一三一の何れかへ照會ありたしと

● ホノルルでの講習が具体的な日程で出てきました。「五日間」ということは、本来の林先生の出張講習スタイルである五日間での前期・後期のフルの靈氣講習だと思われます。

● やっと名前が正しくなりました!

布哇報知 1937年11月の記事(10点)

1937年11月1日(月) 2面
布哇報知 1937年11月1日(月) 2面

1937年11月3日(水) 2面
布哇報知 1937年11月3日(水) 2面


1937年11月4日(木) 4面
布哇報知 1937年11月4日(木) 4面

1937年11月8日(月) 7面
布哇報知 1937年11月8日(月) 7面
● 11月5日(金)に一回目の講習を終わって、すぐに次の週の月曜日から二回目の講習を行ってます。「今晩から」とあるように、最初の段階から講習は平日(月)~(金)の夜間に行っていたことが分かります。



1937年11月18日(木) 6面
布哇報知 1937年11月18日(木) 6面

● カウアイ島では2回の講習で、44名の生徒がいたことが分かります。すでにかなりの人数です。

● この文章だと、ワイメア支部はすでにあって、それがカウアイ支部に昇格したような印象です。「大江法爾?」という開教師というのは追跡できていません。

● 外国人も講習を受けたとありますが、日本語が分かったのでしょうか? 通訳がいたのか? 靈氣を乳搾りに応用したというのは戦前の応用例として非常におもしろいです。


1937年11月20日(土) 2面
布哇報知 1937年11月20日(土) 2面

 
 

● 講とは別に、講も行っています。講演は公開で無料です。ということは、普通の講習では受講料を取って行っていたのか? 講習の費用に関しては新聞記事では一切の手がかりがありませんでした。一度のこれだけの人数が受講するということは、入門料や受講料は有用であっても、それほど高くなかったのではないかと想像できます。



1937年11月20日(土) 5面
布哇報知 1937年11月20日(土) 5面

保健治病の福音
靈氣療法講演會
來る廿四日午後七時
講演者林忠次郎氏
靈氣とは何か、靈氣療法とは何か、その治療の方法は、効果は・・・・こうした質問と詮索の聲が臼井式靈氣療法の大家林忠次郎氏の來布以来當地一般に高まって來た。保健治病を望むは虚弱や病者ばかりではない、何時どんな病氣に罹らないとも限らぬ、これは人間共通の本能的慾求である、日本に行き林氏に師事し靈氣療法の傳授を得て歸布した加哇島の高田ハワヨ夫人によって初めて布哇に靈氣療法が紹介され、更にその保健治病の福音を廣く一般に傳へたいと云ふ高田夫人の切なる希望を入れて林氏の來布となったものである、靈氣療法の驚異的威力が肇祖臼井甕男氏によって滿天下に紹介されて既に十数年其の奇蹟的効果は全く試驗濟みの事實として識者の讃嘆するところである、林氏は臼井氏生前に親しく靈氣療法の傳授及び臼井氏の圓滿高潔なる人格的陶治を受けた者で、其の施療を始むるや忽ち生神様とまで讃嘆され今日まであらゆる生活層の老若男女の保健治療に専心し日々席の温まる間もなく奔走して來たもので肺結核が癒った、高血壓が下がった、心臓病が癒った、痼疾の神經痛が癒った、慢性の胃腸病が癒った、早老を征服して青春を取返した、精力を盛返した、体質が一變した、活動力が倍加した等と同氏の元に來る更正の喜びに溢るる報告は實に枚挙に暇なき程である、その中には醫師もあれば軍人高官もあり富豪もあれば學者もあるといふ。一度治療を受けた人は必ずの如く療法講習を受けて家族の者に、知友にそれを施しては不思議な程効果をあけて更に驚異を深めてゐる。林氏の講習を受けた加哇島では既に支部まで出來た、ホノルルでは治療に應ずる傍既に第三回の講習會を了え四回目の講習を行ってゐるが何れも保健治病の大福音として歓喜してゐる、來る講演會は右第三回までの講習者一同が幾分でもこうした喜びを一般の人々に頒ちたいといふので自發的に林氏の講演を依頼した結果であり、林氏は「靈氣療法の概念」と題して話すことになった。期日は來たる二十四日(水)午後七時、場所はフォート街佛靑會舘、講演無料なれば一般多数の來聽を希望されてゐる(寫眞は林氏と高田夫人)

● ここでは靈氣の説明というか宣伝ですが、新しい情報は意外に少ないです。

● 講習會の他にまったく一般向けに講演会も行ったということです。この場所の「佛靑會舘」ですが、これは「仏教青年会館」のことで、後で写真が出てきます


1937年11月22日(月) 4面
布哇報知 1937年11月22日(月) 4面

1937年11月23日(火) 5面
布哇報知 1937年11月23日(火) 5面



1937年11月27日(土) 4面
布哇報知 1937年11月27日(土) 4面

靈氣療法講演
多大の感銘興ふ
聽衆二百餘名の盛況
靈氣療法の大家林忠次郎氏の講演會は既報の如く去る二十四日午後七時よりフォート街佛教青年會舘で行はれたが相憎の雨天にも拘らず二百餘名の聽衆が集まり盛況を呈した。先づ主催者側を代表して玉代勢法雲氏が司會者となり加哇島カパアの高田ハワヨ夫人を紹介すれば同夫人は腎臓、盲腸等手術を要する病氣を持ちながら東京に行き手術せずに靈氣療法によりて完全に快癒した体験談より自分も其傳授を受けて歸布し加哇島に於て治病に従事し幾多の効蹟をあげたる事、更に今回林先生を布哇に招聘するに至った顚末を詳細に語った。次で林氏起って先づ靈氣療法の肇祖臼井甕男先生の經歴を語り同氏が三週間の斷食後奇蹟的に体得したる靈氣なるものを紹介し、それより靈氣療法の一般概念を説き靈氣療法は精神療法でもなく御祈禱療法でもなくマジナイでもなく所謂インチキでもなく極めて合理的な療法であって、たとひそれを信じない人でも、それを疑ぐる人でも、それに反對する人でも、一たび靈氣を發すれば完全に治病し得るものなることを幾多の實例をあげて縷縷二時間に亘って長講、極めて興味深く聽衆を魅了し十時過ぎに散會した。因に同氏はヌアヌ街グローブホテルに止宿中、毎日午前八時より午後四時まで治療、晩は目下第四回の講習會開催中である。

● 24日の講演会の報告です。200名は大聴衆ですね。この中で司会を務めている「玉代勢法雲(たまよせ ほううん)」は東本願寺のお坊様で、ハワイで普及活動をされていたようですが、のちにハワイ支部の書記になるので、間違いなく会員で有力メンバーであったようです。

布哇報知 1937年12月の記事(3点)

1937年12月14日(火) 7面
布哇報知 1937年12月14日(火) 7面

● 「青山分喜」はのちに治療主任になって活躍していたようですが、正しくは「青山文記」です。どうもこの新聞は名前を間違える確率が非常に高いです

● 「玉代勢法雲」氏は前出です。「諸橋 宏」氏、「植田 政市」氏、「石井 仙太郎」氏は未調査です。「植田政市」はあとの記事では「上田政市」になっています。「諸橋宏」は2月20日の送別会の記事に出てきますが、横浜正金銀行ホノルル支店長であったようです。


1937年12月17日(金) 6面
布哇報知 1937年12月17日(金) 6面

● この第六回目の講習は昼間の時間帯午後2時~4時半で行うということですが、日数がおかしいです。二十日(月)~二十四日(金)だったら五日間になるはずなのですが・・・。


1937年12月24日(金) 6面
布哇報知 1937年12月24日(金) 6面

● これは受講生の感想ですが、前出の「植田政市」氏のイニシャルが「MU」になりますが、違うかもしれません。 この記事はかなりの文字数を使っています。文中、1936年に西式健康法の西勝造氏もハワイに来ていたことが分かります。

● カタカナ表記で「レイキ」と表したのは、多分この人が世界初ではないでしょうか(笑)。

商業時報 1937年12月

この資料はT.H.さんから頂いたものです
商業時報 1937年12月1  商業時報 1937年12月2  商業時報 1937年12月3

著者は「靑芽生」とありますが「土屋青芽 又は 土屋青芳」氏です。この記事が面白いのは、はじめは靈氣療法に対して非常に懐疑的な点ですね。著者の意識が徐々に変わっていくところが興味深いです。

高田先生は、ゴルフもやっていたし、群政府の仕事もしていたということで、ページの後半↓に、ホテルの支配人だったということも出てきますが、社会的にはそれなりに高い位置にいたのではないかと推測できます。

著者は自分で使ってみて、痛みの病腺は感じられていたのだが、時間が短くて効果が上手く出なかったところを、林先生が「林氏は其の痛みが消減するまで施さねばならない、と云うので」と指導しています。靈氣のあるあるですね!

また、この記事を読むと、当時はハワイに、濱口熊岳、巽式、小山式、温灸、江間式、守尾式、藤田靈齊、西式健康法など、多くの施術家・霊術家が訪れていたことが分かります。そして、臼井式靈氣療法が他の療法と違うのは、その大先生だけではなくて、一般の習った人が次々に効果や成果を出していることだという点ですね。やはり、靈氣は誰でも出来て、素晴らしいです!

この記事で私の興味を引いたのは「講習料が五十弗」という部分です。https://www.westegg.com/inflation/ によると1937年当時の$50は、2022年換算で$1,048になり、円換算(130/$) だと、13万6千円が受講料(入門料)だったと推測されます。

一方、山口忠夫先生著「直傳靈氣」によりますと、当時の林靈氣研究会の入門料は50円でした。日本銀行(https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j12.htm)が物価指数を出してますが、1934年~36年の平均を1とすると、2022年の物価は859.4なので、当時の50円は、おおよそ今の4万3千円です。

あるいはお米の値段でみると( https://www.niigatamai.info/userimg/10377/kakaku.html )、1937年に一俵(60kg)は12.90円、つまり10kgで2.15円でした。今はお米10kgはまあ2,500~3,000円位なので、1,163~1,395倍になっています。つまり当時の入門料50円は、お米換算で言うと今の6万~7万円ですね。

さらに、単純に当時の$⇒円換算(日銀研究所 https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk21-2-5.pdf)を行うと、当時の100円は$30位なので、ハワイの受講料$50は、当時の167円相当になります。この換算からも、ハワイの受講料は本土の3倍近くになっていることが強く示唆されます。つまり、ハワイでの受講料はかなり高額だったことが分かります。これは、渡航費や滞在費を考慮しているのかもしれません。

布哇報知 1938年1月の記事(11点)


1938年1月8日(土) 3面
布哇報知 1938年1月8日(土) 3面

1938年1月8日(土) 6面
布哇報知 1938年1月8日(土) 6面

1938年1月10日(月) 4面
布哇報知 1938年1月10日(月) 4面


● 講習の回数がすでに九回になっています。前回の新聞記事では12月20日が第六回になっていますが、これだと計算が合いません。11月1日から毎週講習を行っていくと、この1月10日の週が九回目になります。つまり:

10月08日(金) カウアイ島 ワイメア(3日間) 記事で確認
10月12日(火) カウアイ島 カパア(4日間) 記事で確認
11月01日(月) 1回目 記事で確認
11月08日(月) 2回目 記事で確認
11月15日(月) 3回目 記事で確認
11月22日(月) 4回目 記事で確認
11月29日(月) 5回目  推定
12月06日(月) 6回目  推定
12月13日(月) 7回目  推定
12月20日(月) 8回目 記事は6回目に(昼間講習)
01月11日(火) 9回目 記事で確認
01月17日(月) 10回目  推定
01月24日(月) 11回目  推定
01月31日(月) 12回目 記事で確認
02月07日(月) 13回目  推定
02月15日(火) 14回目  推定

途中の段階で、最初のカウアイ島で行った二回の講習を加えた回数に変更した可能性もありますが、前出の12月17日の記事に載っている回数が間違っている可能性が高いです。

● いよいよ、ハワイ支部が発足となりそうです。日付が少し混乱していますが、第九回の講習は1月10日午後七時から、新年会・発足会も同日の午後六時からでしょうか? あとでも似たケースが出てきますが、こういう場合は講習は火曜から土曜までやったようです。広告ではなくて、記事では講習は11日からになっていますが、そちらが正しいと思われます。


1938年1月11日(火) 4面
布哇報知 1938年1月11日(火) 4面
1938年1月11日(火) 6面
布哇報知 1938年1月11日(火) 6面

 

1938年1月11日(火) 4面
 布哇報知 1938年1月11日(火) 4面
1938年1月12日(水) 7面
 布哇報知 1938年12日(水) 7面


● 夏の家: この新年会が行われた「夏の家(なつのや)」は、今ではホノルルで一番古い料亭となって顕在のようです。あとで出て来る「春潮楼」ですが、ネットでは「夏の家」=「春潮楼」という記述も見かけます。当時は、「夏の家」と「春潮楼」は同一オーナーの別の建物でしたが、今では元の「夏の家」は取り壊されて、歴史的な「春潮楼」を「夏の家」と呼んでいるとのことです。

● この回の講演会が行われたワイパフは真珠湾の近くにあります。

● 「靈氣研究会布哇支部」が発足しました。以降、講習の告知などは、この支部の名称にて行われます。会の組織は次の通りです

講師: 高田ハワヨ
幹事: 青山文記
書記: 玉代勢法雲
会計: 植田政市
本部: グローブホテル内

ここでまた名前が・・・・、以前は「植田政市」でしたが、今回は「上田政市」になっていて、どちらが正しいのか不明ですが、「上田」はこの一回きりなので、多分「植田」でしょう。例会も行うことになっています。

● ここで重要な情報が出ています。日本の林研究会の支部に関してですが、当時:

大阪分会(会員多数)
京都
名古屋
大聖寺
秩父
仙台
盛岡
青森

とあります。山口先生達の属していた大聖寺は地名ではなくて、支部名で出ています。秩父にも支部があったのは意外です。

会員数: 会員数は、あとで出て来る林先生のお別れの言葉では「約5,000人程度」となっていますが、ここでは4,000人以上になっています。又、師範の数は高田先生を入れて13名でこれはお別れの言葉での数と合致しています。


1938年1月13日(木) 4面
 布哇報知 1938年1月13日(木) 4面

1938年1月19日(火) 6面
布哇報知 1938年1月19日(火) 6面
● この記事は西式健康法の会の話しですが、この中でも靈氣療法が話されています。ここでは「触手療法」になっていますが、調査中です。



1938年1月24日(月) 8面
布哇報知 1938年1月24日(月) 8面

1938年1月29日(土) 7面
布哇報知 1938年1月29日(土) 7面


カリヒカイは、ホノルルの北西部カリヒ地区にある地名です。

布哇報知 1938年2月の記事(19点)

1938年2月4日(金) 3面
布哇報知 1938年2月4日(金) 3面

1938年2月4日(金) 3面
 布哇報知 1938年2月4日(金) 3面


● 「エワ」は真珠湾よりもさらに西方の地域です。公開講演会を開催する場所が、徐々にホノルル中心部から広がっていきます! 地域にも靈氣が知られるようになっていきます。


1938年2月5日(土) 2面
布哇報知 1938年2月5日(土) 2面

1938年2月12日(土) 6面
 布哇報知 1938年2月12日(土) 6面


● ついに美容院で靈氣施療の提供が始まりました。こういったスタイは今日ではたまに見られますが、美容院での靈氣はこれが世界初ではないでしょうか? 改装までして、また男性用女性用と区切っているのは、かなり大がかりです。野田サエ子さんが施術を行っているのか、あるいは2箇所で行っているということは、複数の施術者がいたということですね。

● ここで大事な表現が出てきます。「支部発会後講習を受けし人々で未だ会員に加入してない方も同様来会を希望されている。」つまり、講習を受けることと、会員になることは別であるが、少なくとも「講習人数>会員数」であったと思われますので、少なくとも「講習人数≒会員数」と扱っても良さそうです。


1938年2月15日(火) 4面
布哇報知 1938年2月15日(火) 4面
1938年2月17日(木) 7面
布哇報知 1938年2月17日(木) 7面

1938年2月19日(土) 4面
布哇報知 1938年2月19日(土) 4面

1938年2月19日(土) 7面
布哇報知 1938年2月19日(土) 7面



1938年2月21日(月) 3面
布哇報知 1938年2月21日(月) 3面

● 送別会に200人以上の人が出席というのは盛大ですね! この写真は今回始めてみました。男性は背広、女性は着物が多いようでが、現在の宴席と全く同じ感じです。

司会   : 青山文記[文喜は誤記]
講習生代表: 諸橋宏(正金支店長)
感想   : 西川彦蔵
体験談  : リー夫人(学校教師)

「正金」とはおそらくホノルルにあった「横浜正金銀行」の事ではないかと思われます。このビルは今では史跡となっているようです。

● ハレイワ分会が23名で発足しています。ハレイワというのは、オアフ島のホノルルとは真反対の街のようです。


1938年2月22日(火) 2面
布哇報知 1938年2月22日(火) 2面

1938年2月22日(火) 4面
布哇報知 1938年2月22日(火) 4面

1938年2月22日(火) 6面
布哇報知 1938年2月22日(火) 6面
マキキ海軍墓地へ参詣した時の写真が2月23日に載ります。



林先生の告別放送
1938年2月22日(火) 8面
布哇報知 1938年2月22日(火) 8面

今回のこのハワイ報知の記事の中で、圧倒的に重要なのはこの林先生のお別れの言葉です。新聞の記事というのは往々にして、真実と離れていることがあり、記者の誤解や歪曲が含まれているものですが、このお別れの言葉は、日本語の放送をそのまま文章にしたものですので、確度が非常に高いと思います。これを分析してみましょう。

皆様の御厚情に衷心より感謝す 林氏の告別放送

左は去るサンデー朝ケージー・エム・ビーから放送された臼井靈氣療法の林忠次郎氏歸國告別挨拶

 私は御紹介に預かりました臼井靈氣療法の林忠次郎であります。昨年十月以来當市に滞在中でありましたが、明後二十二日發の龍田丸で歸國致しますので、一言御挨拶を述べさせて頂きます。

 靈氣療法は人の體から自然に湧き出る靈氣と云ふ力を以て自分の體は勿論、他人の病氣や性質を何の工夫もなく直す方法で少しも六ケしい[難しい]修業もいりません、只五六日間毎日三時間位の講習を御聞きになれば、初めの日から驚く程の効果を顕はすことが出來ます。十二三才以上なれば男女の區別なく誰にでもたやすく出來ます。布哇全島で三百五十名の會員が出來ましたが、其中には全く日本語の分らぬ白人、布哇人、志那人なども居られますが、皆様が能く御分りになつて、色々の病氣を直して大變喜んで居られます。布哇島、馬哇島の地方に此喜びをお分けすることの出來なかつたのは誠に遺憾に存じます。

日本には會員が約五千名程居られますが、其中から此療法の傳授に適すると認めましたお方十三名を推選致しましたが、當市の髙田はわよ夫人は其一人で、布哇及米國を通じて傳授者は髙田夫人只一人出あります。外には居りません。

 傳授をお望みのお方や又は病氣で悩むで居られるお方は髙田夫人又は治療主任青山文記氏に御相談下さい、ヌアヌ街グローブ・ホテルに居られます。

 高田夫人は加哇生れの第二世ですが、一昨々年の冬東京の私の治療所で約半年の間熱心に此法を修業して一昨年七月加哇島に歸り同地で治療と傳授を始めました處、會員五〇余名に達しました。昨年七月夫人は突然私の宅を訪れ私に布哇観光を勧めましたので私は是に應じ娘を伴ひ十月二日ホノルルに上陸し、四日加哇に渡り同地の會員に御面會しましたが、皆様から心からなる御歓待を受けましたことを茲に感謝致します。

 十月下旬再び當市に歸りまして有志諸君のお望みにより今日迄に十四回の講習會を開きました、毎回多數の入會者が御座いまして何れも能く御理解下さいまして、御自身は勿論近親の病氣をやすやすと直されて健康の幸福を感謝して居られます。

 私の當市滞在が案外に永引ましたので日本の希望者が大分待って居られますので明後二十二日此思ひ出多き地を後にして歸國致します。滞在中は會員諸君を始め皆様方の一方ならぬ御歓待を頂きまして誠に愉快に、少しも旅の寂しさなどを感ぜず、五ヶ月の長い月日を一日の如く過ごさせて頂きましたことは私等親子の終生忘れられぬ喜びでありまして皆様の御友情を深く深く御禮申し上げます。皆様の御健康と幸福を切に祈り申しあげまして御挨拶を終ります。皆さん御機嫌よう……左様なら。

● ラジオ局: この放送が行われたホノルルのラジオ局"KGMB radio"は現在はKSSKと名前を変えています。このKGMBの放送は、米軍自体が位置を確認するためのビーコンとして使用していて、帝国海軍が真珠湾の攻撃する際にホノルルの位置を特定するために利用したという逸話があります。「サンデー朝」は「日曜日の朝」の意味です。

● 「臼井式」靈氣療法ではなく、臼井霊気療法になっています。高田さんの使った表現とはやはり違います。

● このスピーチで「會員」と言っているのは、林靈氣研究会の会員のことと思われます。林先生が帰国される前でに350名が会員になったというのはとても大きいです。2月12日記事のコメントで述べましたが、講習を受けた人数と会員数はほぼ同等と考えられます。この中には、すでに白人、中国人も含まれていたというのは面白いです。

● 非常に大事なのは、日本での林靈氣研究会の会員が5,000人いたということでしょうか。林靈氣研究会の会員数というのは具体的な数字で述べられているのは、多分このスピーチが唯一ではないでしょうか。また、当時高田さんを含めて師範の人数が13名いたということも重要です。

● 高田さんの来日の事実は、すでに最初に明示しておきましたが、乗船記録以外でも、林先生の明言しているとおりです。完全に確定の事実だと思います。

● 高田さんは、1936年にカウアイ島へ戻ってから、治療と伝授を始めていると明言されています。高田さんが林靈氣研究会へ入会させた人は50名以上もいました。これが講習の人数と同一化は明確ではないですが、少なくとも師範格として初伝を教えていたことはほぼ間違いないのではないかと思われます。

● 林先生は高田先生の"a Master of the Usui Reiki system of drugless healing"として英語の認定書を発行されていますが、この日付が1938年2月21日と、林先生の帰日出発の前日になっています。つまり高田先生は書類上は、この時に師範になったと考えて良いでしょう。しかし1936年の帰ハワイの後に教え始めていますので、1936年に日本を離れた時に師範の認定をもらっているはずです。

● 14回の講習を行ったというのはすごいですね。平均すると一回の講習で350名÷14回=25名の参加者がいたことになります。大盛況といえるのではないでしょうか。

● 靈氣を習った人がどんどん効果を出しているという報告は大変素晴らしいです! 多くの人と関わり合い、5ヶ月という長い期間滞在されて、ハワイは林先生にとって、とても大きな存在になったのではないかと想像します。

● 林先生が龍田丸でホノルルを発ったのは、1938年2月22日。横浜まではほぼ一週間ですから、2月末に帰日されているのでしょう。そして、実は山口千代子先生が初めて林先生のセミナーを大聖寺分会で受けたのが、1938年3月下旬です。ですから、林先生は東京へ帰宅されて、ほんとに間もなく石川県へ向かわれたのだと思います。林先生のハワイ滞在と千代子先生受講は、時間的に隣接したイベントだったのです。


1938年2月23日(水) 6面
布哇報知 1938年2月23日(水) 6面
マキキ海軍墓地は米国ではなく、ホノルルにある日本人の墓地です。ここに説明があります


1938年2月23日(水) 6面
布哇報知 1938年2月23日(水) 6面

1938年2月24日(木) 6面
布哇報知 1938年2月24日(木) 6面
● 船上から電報が打てたのですね!



1938年2月26日(土) 3面
 布哇報知 1938年2月2月26日(土) 3面

1938年2月26日(土) 8面
布哇報知 1938年2月2月26日(土) 8面

1938年2月28日(月) 8面
布哇報知 1938年2月2月26日(月) 8面


● さて、林先生はすでに帰国されてしまいました。ここから高田先生が主人公です。講習会の回数はそのまま連続で15回目となります。[講師]高田ハワヨ+[治療主任]青山文記、というコンビで講習が行われていきます。また、開催場所はグローブホテルと佛教青年會舘を使っていたようです。

布哇報知 1938年3月の記事(12点)

1938年3月4日(金) 4面
布哇報知 1938年3月4日 4面

● 時系列が戻りますが、林先生の最後の講習、第十四回目の講習です。ザッと数えましたが126名いますね。この人数では講習は出来ませんので、「最後の晩の記念撮影」とありますので、最終日で皆さんが記念に集まったものと想像します。この週は14日(月)は例会が行われたので、想像ですが講習最終日は2月19日(土)だと思われます。

布哇報知 1938年3月4日 4面一部私が以前入手していた写真(右→)は実は両端がトリムされていたことが分かりました。新聞の写真にはなにも文字が書かれていませんので、別の経路で写真なのでしょう。但し、右の写真には1937年と年号が入っているのですが、この年号は間違えていたことになります。

布哇報知 1938年3月4日 4面

拡大してみました。掛け軸の横に見えるのがおそらく林先生です!顔が確かに林先生に似ています。実演しているのは、高田先生だと思いますが、顔かたちがもう一つ分かりません。

布哇報知 1938年3月4日 4面

そう! 間違いなく、
まさにあの掛け軸です!!
なんか嬉しいですね(^^)
 
この写真の掛け軸は、高田さんはず~とキープしていたようで、お孫さんのPhyllis Lei Furumotoの生徒さん(Fokke Brink)が掛け軸と一緒に写っている高田さんの写真を見たことがあり、現在はアイダホ州のレイキ実践者がFurumotoさんから高田さんの遺品として受け継いでいるとのことです。素晴らしい!



1938年3月5日(土) 3面
布哇報知 1938年3月5日(土) 3面

1938年3月5日(土) 4面
布哇報知 1938年3月5日(土) 4面



1938年3月11日(金) 4面
布哇報知 1938年3月11日(金) 4面

   1938年3月12日(土) 4面
布哇報知 1938年3月12日(土) 4面
   1938年3月12日(土) 6面
布哇報知 1938年3月12日(土) 6面
   1938年3月14日(月) 4面
布哇報知 1938年3月14日(月) 4面


1938年3月15日(火) 7面
布哇報知 1938年3月15日(火) 7面

● 司会は青山文記氏。植田政市氏、土屋青芳氏、高木末熊氏、西川彦蔵氏等の名前が出てきます。植田氏は「上田」ではなく、「植田」なのでしょうか。「高木末熊」は珍しい名前なので調べてみると、明治期の「釜山:朝鮮時報社長」と出てきましたが、合っているかわかりません。


1938年3月18日(金) 6面
布哇報知 1938年3月18日(金) 6面
● 2月5日に公開講演会の行われたエワですが、すでに分会が出来ていた事が分かります。


1938年3月19日(土) 4面
布哇報知 1938年3月19日(土) 4面

1938年3月19日(土) 5面
布哇報知 1938年3月19日(土) 5面

1938年3月21日(月) 5面
布哇報知 1938年3月21日(月) 5面


● すごいですね、林先生が帰国されたあとも、毎週講習が続いています! 最終的に高田先生が、この林先生のスタイルで何回の講習を行ったのか、非常に興味のある所です。


布哇報知 1938年4月の記事(4点)

1938年4月9日(土) 2面
布哇報知 1938年4月9日(土) 2面

1938年4月9日(土) 3面
布哇報知 1938年4月9日(土) 3面



1938年4月16日(土) 6面
布哇報知 1938年4月16日(土) 6面
「妾儀」は、「妾」が当時女性が自分をへりくだって表現する表記で、「儀」が"について"という意味で、「私こと」と読むそうです(笹川様、ありがとうございます)。「羅府」はロサンゼルス。

1938年4月16日(土) 12面
布哇報知 1938年4月16日(土) 12面
前出の渡航記録と完全に一致しています。
「羅府」はロサンゼルス、「桑港」はサンフランシスコです。
この二人の外国人の名前は検索してみましたが分かりませんでした。
窪川旭丈」氏はロサンゼルスで活動された人のようです。

● アメリカ西海岸で講習を行った可能性もありますが、今のところ不明です。留守中は6名のお弟子さん達が治療に対応したようです。


[注: 5月は元のハワイ報知の原本が欠損していて、フィルム化されていません]

布哇報知 1938年6月の記事(4点)

1938年6月8日(水) 5面
布哇報知 1938年4月16日(土) 6面

 
● アメリカ西海岸から戻ってくる前日の広告です。治療は、午前8時~12時、午後1時~4時、夕方6時~9時と三回に時間を区切ったようです。

● 場所が移転しますが、ここには11月からとありますが、既に6月下旬から移転します。移転先は「465 South Beretania Street, Honolulu, HI 96814」で、これまでのホノルル中心街から外れています。現在もこの傍にはク井ン病院 The Queen's Medical Center があります。

この移転は重要かもしれません。治療主任の青山文記氏の住所は1942年まで元のヌアヌ街になっており、また以降青山氏の名前が出てこなくなっているようなので、青山氏との関連がどうなったのかと思います。



1938年6月13日(月) 3面
布哇報知 1938年6月13日(月) 3面

1938年6月13日(月) 7面
布哇報知 1938年6月13日(月) 3面
記事見出しの第三回というのは第五回の間違いです。



1938年6月22日(水) 2面
布哇報知 1938年6月22日(水) 2面
● この時から移転します。電話番号も変わります。「465 South Beretania Street, Honolulu, HI 96814」はホノルル中心街から外れています。現在もこの傍にはク井ン病院 The Queen's Medical Center があります。

前出の1938年の高田先生の住所が「1808 S Beretania」とありますので、この同じ通りになっています。


野田儀角氏の靈氣療法

野田儀角

邦字新聞を「靈氣」で検索すると、出て来るのがこの「野田儀角氏」の靈氣療法です。最初、林先生を布哇報知へ案内したのは、野田儀角氏夫妻でしたし、野田サエ子夫人はのちに靈氣の施術にも携わっています。

ただ、林先生來布中は野田儀角氏自身のスタンスというのがよく分かりませんでした。ところが、1938年夏頃から野田儀角氏が、独自の「靈氣療法」の講習をスタートしています。この中身や高田先生との関係はよく分かりませんでした。

↓次の雑誌記事によると「弟子格の野田儀角夫妻が」と書かれているので、最初は野田儀角氏は高田先生と一緒にやっていて、勝手に独立した可能性があります。


高田先生はシカゴのラジオに出演?

1938年10月 商業時事
1938年10月 商業時事
これはT.H.さんから頂いた資料ですが、高田先生は1938年に渡米したおりに、西海岸だけではなくて、東海岸にも行っていたということでしょうか。 しかも、高田先生の人脈は凄いですね、そんなに簡単に放送に出演できてしまうなんて! このときのラジオ放送の録音が残っていたら素晴らしいのですが・・・

他の林先生のお弟子さん

花田登
ハワイには、高田先生とは直接関係の無い施術者もいたようです。この「花田登氏」は山口市で林先生に師事したとあります。1938年4月(林先生が帰日した後)にハワイに戻って施術をしていたようでした。

高田先生の渡日 1940年3月

日布時事 1940年3月20日
日布時事 1940年3月20日A
日布時事 1940年3月20日B
一番最初の高田先生の渡航歴にあるように、1940年3月に渡日していますね。

橋本亀之介氏 1940年6月

日布時事 1940年6月29日
日布時事 1940年6月29日
「臼井」と表記しているので、林先生か高田先生から習った人だと思います。


林先生の訃報 1940年10月

日布時事 1940年10月30日
林先生訃報
林先生が亡くなったのは、5月11日ですが、かなり遅れてこの時期に訃報が載っていました。


戦争末期に宣伝を再開 1945年2月

Hawaii Times 1945年2月17日
Hawaii Times 1945年2月17日
なんと、高田先生は終戦になる前の2月に、すでに講習広告を再開しています! 大本営が本土決戦を決定し、米軍が硫黄島に上陸する頃です。新聞も戦時中ですから、いままでの邦字新聞ではなく、Hawaii Timesとなっています。きっと、色々と見えない努力をされていたのだと想像します。この時に、どれだけ人が集まったのでしょうか。この戦時中の広告はこれ1回きりのようです。


戦後の靈氣 1946年7月

Hawaii Times 1946年7月18日~8月21日
Hawaii Times 友安松太郎1 Hawaii Times 友安松太郎2 Hawaii Times 友安松太郎3 Hawaii Times 友安松太郎4
今回(2023年)の調査では、終戦後に高田先生の靈氣広告や記事は出てきませんでしたが、施術をしていた人「友安松太郎」さんがいました。ハワイで林先生から習った人です。この記事で特に大事なのは「殊に医師の少ない過去の監禁生活に於いては」とありますので、これは日本人の収容キャンプのことで、そこで靈氣を活用していたと言うことだと思います!

高田先生はホテル支配人だった! 1947年9月

Hawaii Times 1947年9月9日
Hawaii Times 1947年9月9日
靈氣の活動ではないですが、高田先生はワイメアホテルの支配人だったのですね! 全く知りませんでした! 靈氣は教えてなかったけど、かなり余裕のある生活が出来ていたのかも知れません。

他にも靈氣施術の人が 1953年4月

Hawaii Times 1953年4月6日
橋本亀之介
さらに、その後に靈氣療法の施術をしている人「橋本亀之介」さんもいました。これも臼井とありますので、林先生か高田先生から教わった人なのだと思います。



まとめ

時系列まとめ
1935.10高田 初来日浅間丸で9才娘と
1936.6高田 ハワイへ戻る 
1937.7高田 再来日 
1937.9高田 ハワイへ戻る 
  
1937.9.24林 横浜港発
1937.10.2林 ホノルル到着秩父丸で清枝嬢と
1937.10.2林 布哇報知社訪問野田サエ子案内で
1937.10.5カウアイ島へ移動布哇報知支社を訪問
1937.10.6布哇報知 加哇支社を訪問 
1937.10.8カウアイ島 ワイメアで講習3日間 鶴谷宅
1937.10.12カウアイ島 カパアで講習4日間 綿村信男宅
1937.10.下旬オアフ島ホノルルへ移動 
1937.10.27高田 開業の広告ホテルグローブ内
1937.11.1第1回講習五日間
1937.11.8第2回講習五日間 十数名
1937.11.15第3回講習五日間
1937.11.18カウアイ支部会 誕生ワイメア支部、カパア支部?
1937.11.22第4回講習五日間
1937.11.24公開講演会(無料)佛教青年會舘 200名以上
1937.12.14送別会(但し帰国は延期)50名以上
1937.12.20第"6"回講習四日間 昼間午後2時~4時半
1938.1.10布哇支部 発足会・新年会スクール街 夏の家
1938.1.11第9回講習五日間 午後7時~9時
1938.1.15公開講演会(無料)ワイパブ社交倶楽部
1938.1.25公開講演会(無料)カリヒカイ日本語学校
1938.1.31第12回講習午後7時~9時
1938.2.5公開講演会(無料)エワ社交倶楽部
1938.2.14月例会 第1回佛教青年會舘(約150名)
1938.2.20KGMBで告別放送
1938.2.20送別会アレワハイト春潮楼(200名余)
1938.2.20ハレイワ分会 発足23名
1938.2.22マキキ海軍墓地へ参詣伴:高田、青山、清枝
1938.2.22林 帰日の途へ龍田丸で出航
  
1938.2.28第15回講習講師:高田、主任:青山 佛青會舘
1938.3.7第16回講習講師:高田、主任:青山 佛青會舘
1938.3.14月例会 第2回150余名 佛青會舘
1938.3.15第17回講習講師:高田、主任:青山 グローブホテル
1938.3.21第18回講習講師:高田、主任:青山 グローブホテル
1938.4.11月例会 第3回佛青會舘

講習に関しては、記事で確認が取れたものだけ入れましたので、実際に回数が飛んでいたわけではないです。講習会についてだけ、推定も含めて以下↓にまとめてみました。

林先生 講習会まとめ(含 推定)
10月08日(金) ワイメア(3日間)カウアイ島 記事で確認
10月12日(火)カパア(4日間)カウアイ島 記事で確認
11月01日(月) 1回目 記事で確認
11月08日(月) 2回目 記事で確認
11月15日(月) 3回目 記事で確認
11月22日(月) 4回目 記事で確認
11月29日(月) 5回目  推定
12月06日(月) 6回目  推定
12月13日(月) 7回目  推定
12月20日(月) 8回目 記事は"6"回目に(昼間講習)
01月11日(火) 9回目 記事で確認
01月17日(月) 10回目  推定
01月24日(月) 11回目  推定
01月31日(月) 12回目 記事で確認
02月07日(月) 13回目  推定
02月15日(火) 14回目  推定

林先生 公開講演会まとめ
1937.11.24  公開講演会(無料) 佛教青年會舘 200名以上
1938.1.15 公開講演会(無料) ワイパブ社交倶楽部
1938.1.25 公開講演会(無料) カリヒカイ日本語学校
1938.2.5 公開講演会(無料) エワ社交倶楽部


高田先生 講習会まとめ
1938.2.28第15回講習講師:高田、主任:青山 佛青會舘
1938.3.7第16回講習講師:高田、主任:青山 佛青會舘
1938.3.15第17回講習講師:高田、主任:青山 グローブホテル
1938.3.21第18回講習講師:高田、主任:青山 グローブホテル

例会まとめ
1938.2.14  月例会 第1回  佛教青年會舘(約150名)
1938.3.14 月例会 第2回 150余名 佛青會舘
1938.4.11 月例会 第3回 佛青會舘
1938.5 月例会 第4回 ← 推定
1938.6.13 月例会 第5回 佛青會舘

支部・分会まとめ
1937.11.18 カウアイ支部会 誕生ワイメア支部、カパア支部?
1938.1.10布哇支部 発足会・新年会 スクール街 夏の家
1938.2.20ハレイワ分会 発足23名
日時不明エワ分会 発足

わかったこと

  • ヒロ(ハワイ島)には、昭和八年五月に靈氣を習っていた人がいた可能性がある。
  • 高田先生は初来日の帰国後(1936年~)、すでに50名程度の講習を行っていた(おそらく初伝)。
  • 林先生は1937年10月2日~1938年2月22日までハワイに滞在、主にホノルルで講習と講演を行った。
  • 講習はカウアイ島で2回、ホノルルで14回も、ほぼ毎週行われ、350名以上の受講者があった。
  • 講習は基本的に、午後7時~9時を5日間、月曜から金曜行っていた。
  • 一般に対する無料の講演会も、4回行っていた。
  • カウアイ島の支部、ハワイ支部の発足、さらに分会も2つ発足している。
  • 月一度の例会も開催されるようになっていた。
  • 高田先生は「臼井靈氣療法」と称していた。海外で「臼井式」と呼ばれる元に?
  • 靈氣施術を提供する美容院が現れた。
  • 使用していた五戒の掛け軸は、今日の直傳霊気のものと完全に一致。
  • 日本の林靈氣研究会の会員は5,000名近くがおり、大阪分会(会員多数)、京都、名古屋、大聖寺、秩父、仙台、盛岡、青森の各地に支部・分会があった。
  • 当時の林靈氣研究会の師範は、高田先生を含めて13名、国外では高田先生のみ。
  • 林先生の帰国後は、高田先生は講師に昇格して、講習を続けた。
  • 布哇報知はしばしば人の名前を間違えることがあり、注意が必要。

わからないこと

  • 講習は5日間と直傳のスタイルと同じだが、夜の二時間だけで、昼間は練習などはしなかったのか? 日本でのスタイル (午前講義+午後実習)×5日間となぜ違うのか? 二時間×5日間で修得出来ていたのか?
  • 入門料、受講料は不明。
  • 実習は、実演は膝の高さのベッド様のものを使用したが、生徒がどのように実習したかは不明。
  • 講習は夜だったので、昼間は何をしていたのでしょうか? 広告によると、林先生(とおそらく高田先生も)は昼間は施術をされていたと思われます。ただ、集合写真によると女性の生徒さんも多くいたので、すくなくとも昼間に時間のある生徒さんはかなりいたはずなので、受講した生徒さんが練習をしていた、あるいは施術を手伝った可能性もあると思います。

講習の内容

<講習の内容は不明・・・だが> 講習の内容に関しては、新聞記事からは一切憶測することすら出来ませんでした。霊授、五戒、血液交換法、病腺、性癖治療、遠隔といった言葉は一切出てきません。ただ、二時間×五日間という今日の直傳靈氣へ継承されているスタイル、それから林先生が石川県へ行って講習を行っていた1935年~1938年と完全に期間が重なっているため、当時日本で教えていた内容をそのまま教えていた可能性が一番高いです。

<高田先生は直傳靈氣を多数の人に教えていた・・・>しかも、高田先生は林先生の助手として第1回~14回の講習に入っていますので、そこで林先生の教えるスタイルは身に浸みていると思います。ですので、林先生の帰日後に行った講習も、その林先生直傳の講習、即ち直傳靈氣を教えていたことになります。高田講師として、1938年の3月だけでも4回の講習をしていますから、高田先生が直傳靈氣を教えた人数は、おそらく数百人に上るのではないかと推測されます。高田ハワヨ、というと直傳靈氣とは対極である西洋レイキの元祖というイメージが強固ですが、実は初期には直傳靈氣をしっかり教えていたと言えます。高田先生は直傳靈氣の大大先輩だったのです。しかし、高田先生が西洋レイキを教え始めるのは、この時から実に30年以上もあとのことなので、その時間こそが、直傳靈氣と西洋レイキを隔てているものになるのでしょう。

関係者リスト

注意が必要ですが、布哇報知は人の名前をしばしば間違えています。記事中に一回しか名前が出てこない人は、間違いがある可能性があります。

  • 樋口貫: 牧師、昭和八年五月に靈氣を習っていたとされている。資料は少し見つかったが、霊気に関しては不明。(資料1資料2資料3
  • 田原仲亮: 日本語学校校長、昭和八年五月に靈氣を習っていたとされている。
  • 野田サエ子: Alice Sae Teshima Noda、美容院経営者、ご主人は野球チーム創設者の野田義角(Steere Gikaku Noda)と思われる。サエ子さんは、ホノルルに少なくとも2つの美容室を持っていて、銀座にも美容室を持っていた。(ハワイ有名人Wikipediaの記述書籍:美容の歴史) 靈氣講習申込の窓口を担当したり、ホノルルの美容室では、改装してまで靈氣の施術を提供するようになる。しかし、戦争が始まると美容院は閉鎖に追い込まれます。この野田夫妻の流れは追跡可能と思われます。(資料1資料2資料3) ご主人と思われる Steere Gikaku Noda (野田義角) 氏は超有名人で、野球選手、法律家、政治家で戦後日本政府から五等旭日章を受けているようです。
  • 鶴谷: カウアイ島のワイメアで講習をした時のお家です。
  • 綿村信男: カウアイ島のカパアで講習をした時のお家です。
  • 福間: カウアイ島の帝国総領事。夫人と林氏が知り合い。
  • 大江法爾: ワイメア支部の会員。
  • 玉代勢法雲: 本願寺のお坊さん(1881-1956)、靈氣ハワイ支部の書記。那覇市出身。沖縄で名護別院等を経て1920年に39歳でハワイへ赴任。1936年にホノルルのマカレー東本願寺の住職となった。戦後、琉球大学の復帰に助力されたようです。このかたも追跡可能ではないでしょうか。(資料1
  • 青山文記: 靈氣治療主任、ホノルルでは高田先生に次いでナンバーツー。重要人物だが、本来の職業が不明。www.ancestry.comで調べると、1885年生まれ、奥様が5才年上のHakempさん。ハワイに移民したのが1906年。当時は50才前半です。渡航記録がいくつかあって九州に行っており、出身が「Kumamoto-ken, Hotaku-gun, Kengun-mura」になっていますが、これはおそらく「熊本県飽託郡健軍村」の事と思われます。1936年では国籍がまだ日本です。職業は農業、掃除夫、ホテルキーパーなどです。非常に興味深いのが、1938年1942年の住所が「1633 Nuuanu av」となっていて、これは施術や講習が行われている場所です。住みこみでやっていた可能性があり、それも開戦してもそこにいたようです。記録ではお子さんがいなかったようです。
  • 植田政市: 靈氣ハワイ支部の会計。「MU」という名で感想を掲載していると思われる。その記事の中で「職業柄自分は勿論、一般人々の健康に関してはかなりの興味もあり」と記しているので、何かの施療をしていた可能性あり。
  • 諸橋宏: 横浜正金銀行ホノルル支店長、送別会で講習生代表。
  • 石井仙太郎: 送別会で万歳発声。
  • 中村源作: 西式健康法と靈氣と両方やっていた?
  • 西川彦蔵: 送別会で感想を述べる。第二回例会でも報告。
  • リー夫人: 学校教師、送別会で体験談を述べる。
  • 土屋青芳: 第二回例会で報告
  • 高木末熊: 第二回例会で報告、明治期の釜山の朝鮮時報社長?

謝辞

この布哇報知の記事が明らかになったことで、高田先生の足取りや、林先生のハワイでの活動が非常に明確になったと思います。Justin Stein氏には、再度深く感謝致します。

今回、頭の痛くなるマイクロフィルムの目視調査を手伝って頂いたCKさん、本当に助かりました。沢山記事を見つけて下さって、どうもありがとうございました。


このページを書いて一つ大きく感じたことがあります。林先生の言動については、一貫しているので驚くようなことはなかったのですが、一番感じた疑問は

ハワイで高田先生や林先生から習った人達は、
一体どうなってしまったのだろう?

高田先生は最初の帰国から50名を会員にしていますし、林先生の今回の訪問で350人が加わって、400名の会員になったわけです。そして高田先生のこの勢いからして、林先生が帰日した後も、どんどん講習を重ねていったに違いありません。その人達は戦中・戦後どこかへ消滅してしまった・・・・。

高田先生が、師範だったことは間違いないと思いますが、彼女が師範格を教えることが出来たのかが分かりませんでした。高田さん以外に教える立場の人がいなかったのかも知れません。それにしても、やはり真珠湾攻撃とそれに続く太平洋戦争の影響が多大だったと言うことでしょうか・・・・

Fran Brown "Living Reiki: Takata's Teachings" や Helen J. Haberly "Reiki: Hawayo Takata's Story" によると、高田先生は林先生が帰国したあと、浄土宗のお坊さんの通訳としてアメリカに渡り、シカゴの"National College of Drugless Physicians"という学校(検索しましたが現存しません)でセラピーや解剖生理を学んで1938年7月にハワイへ来布し、その後、ホノルルやハワイ島を行き来しながら、1939年にハワイ島ヒロに家を購入しています。また、1940年に林先生が亡くなる時に、林先生が夢枕に出てきて日本に急遽行ったとあります。

1941年の真珠湾攻撃まで、セラピーや講習を続けていたはずですが、この間にどれだけの人数を教えたかは不明です。戦争が終わってから、自分の生徒さんやクライアントさんにコンタクトして再会しようとした形跡もありません。

いずれにしろ、林先生や高田先生が戦前にハワイで教えた人達は、そのまま消滅してしまったのです。消滅というか、継承されなかったというか。このページに書かれているあれだけの努力をしたものが、そのまま失われてしまったというのは、実に恐ろしいことではないでしょうか。もちろん、これは日本での事にも言えるわけで、林先生の日本の5,000人の生徒さんの中で、継承されていったのはほんの一握りだったわけです。今回この資料をまとめていて、改めて戦争の影響の恐ろしさを痛感しました。

帝国海軍の真珠湾攻撃が始まった時点で、ハワイで何が起こったのか簡単に調べてみました。

愛知学院大学学術紀要データベース
ホノルルにおけるエスニック居住区の形成と変化
[日系居住区のマノアとモイリイリに注目して]

高木(北山)員理子

「日米戦争勃発後,ハワイでは日本的な組織は解体をせまられ,親日的とみなされた一世や帰米二世のリーダーはアメリカ本土やハワイ内の収容所に連行された。日本語と日本文化を二世に教えていたハワイ中の日本語学校は閉鎖された(12)。マノアでも日本語学校は閉鎖され,校長は親日派として収容されてしまった。これは日系エスニック居住区の存続の危機であった。マノア日本語学校の校舎は戦争中,救急診療所と地区長の本部として使われた。他の多くの日本語学校校舎がキリスト教会やその他の非営利団体に寄付されてしまったのと異なり,マノア日本語学校はマノアに住む5人の一世の共同信託のもとにおかれた。」

「一時は日系人口がその90パーセントを占めるとまでいわれたモイリイリの日系居住区は戦中・戦後どのように変化したのであろうか。日本軍によるパールハバー攻撃の際,アメリカ軍の対空砲火弾がモイリイリやマッカリー地区にまで飛んできて10軒以上の家屋を直撃し火災となったことはよく知られている。そして日本語学校の校長/教師や神社の神官,日本語新聞の記者といったコミュニティ・リーダーと目された人々(一世や帰米二世)が,親日分子としてFBIに連行され,収容されてしまった。しかし,残された人々はアメリカ軍への奉仕活動を積極的に行った。」


立命館大学 国際言語文化研究所
太平洋戦争中のハワイにおける日系人強制収容
[消された過去を追って]

小川真和子

「戦時中にハワイ在住者に対して課された様々な制約,たとえば灯火統制や夜間外出禁止令,さらに日本人,日系人のみを対象とした公共の場での日本語使用の禁止や,10人以上の集会禁止などを破ったという理由で検挙,収容された者もいた(43)。戦時中にハワイで検挙され,米本土もしくはハワイ内で収容された者の人数は2,392人で,その職業は従来言われていたような,日系社会のリーダーと目される者や,国防上,アメリカにとって危険と見なされた漁業者や帰米二世だけでなく,石工,料理人,パン屋,大工,理髪師,農業者,運転手,ボイラー技士,建設作業員,ホテル従業員,レストラン従業員,洋服の仕立て屋,水道管工事業者など,ともすれば収容所の維持運営の為に連れてこられたのではないか,とすら思われるような者も少なからず存在した(44)。」

「厳令下のハワイでは,灯火統制や夜間外出禁止令に加え,酒類販売禁止,手紙や新聞の検閲などがハワイ住民に対して課せられた。特に日本人,日系人に対しては,カメラ,双眼鏡,短波ラジオの所持禁止,外国人登録(指紋採取),日本語新聞発行停止 (1942年1月6日以降,二紙のみ軍政府の検閲を受けるという条件付きで再発行が認められた),公的な場での日本語使用禁止,10人以上の集会禁止(のち日系二世部隊などの戦死者が出て葬儀などが行われるようになると緩和された),より厳しい旅行制限,海辺など特定の地域への立ち入り制限などが課せられた。」

つまり開戦と同時に、ハワイの日系人は特に社会的立場にある人、親日的な人達を中心に、収容されていったということです。ちょうど、日本が敗戦して占領された時に似てたわけです。しかも、日本の占領時と違ってより身近な人達が取り締まれていったということです。上記の論文のように10人以上の日本人集会は禁止されたのでしたら、かなりこれは恐ろしいことです。

さらに靈氣療法は、まさに敵国の帝国海軍の大佐が広めたものということになりますから、個人で靈氣を使うこと以外は、一切の活動が出来なかったはずですし、支部や分会は解散しなければならなかったでしょう。そもそも、上記の様にハワイ支部の有力メンバーは社会的な地位と影響力があり、そして靈氣をやっていれば親日ということになりますから、実際に収容されてしまったり、収容される危険性を日々肌に感じながら過ごしたはずです。(高田さんは靈氣以外に関しては、まったくの一般市民ですので、それで収容されなかったのでしょう)

この様な状況で、ハワイでの臼井靈氣療法が解体していってしまって、戦後何も残らなくなってしまったということは、かなりの想像が出来ます。もちろん、当時の人々の健康に役立ったことは間違いないですが、結末は実に実に悲しいことです。今回記事の調査をしていて、この靈氣の広がりが、最初のうちは「なんて素晴らしい」と感じたのですが、結局最後には、全てが霧散してしまったことを意識させられると、講習の回数が増えても、支部や分会が発足しても、何かとても虚しく、悲しく感じられるようになってしまいました。そして、高田先生だけが唯一、しかし三十年以上の時を費やして、何とか靈氣を復活しようという気持ちになったということです。


最後は悲しい終わりになってしまって済みませんでした。このページ、整合性がない部分や、意味不明の部分、私が誤解している点等がありましたら、ご遠慮なく指摘して頂ければ幸いです。(仁科まさき)